羊飼いの門

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羊飼いの門

(ヨハネによる福音書10章1~10節)

今日は音楽礼拝という形で礼拝をささげることができ、嬉しく思います。三年間、コロナ過でコンサートも開けず、礼拝の中で賛美をすることも自粛してきました。今日はそれらを一つにまとめたようなスタイルの礼拝です。そして、礼拝の中でピアノも用いられるように出来たらという思いもありました。こうして自分たちに与えられている賜物を通して神様を賛美し、また古くからおられた方々と新しく加わった方々の交わりが豊かになれればと思います。このことは、初めての試みでありますし、きっと、これから大きな変化をもたらすことにもなると思います。私たちの教会が、折がよくても悪くても、福音を宣べ伝える器として豊かに用いられるために、私たちをささげていきたいと思います。

さて、イエスさまは「私は羊の門である」とご自分のことをおっしゃいながら、11節では、「私は良い羊飼いである」ともおっしゃっておられます。良い羊飼いにとってまず大切なことは、自分に委ねられた羊の名前をすべて知っているということです。囲いから野原に羊を導くときには、一人ひとりの名前を呼んで導き、ご自分が先頭に立ちます。それは、一回きりではなく、毎日、どんなときも野原の牧草地へ出ていくときには、一人ひとりの名前を呼んで囲いから連れ出し、自分の後についてくるように先頭に立ってくださいます。

一人ひとりの名前を呼ばれるということは、委ねられている羊の一人ひとりと対等に向かい合っておられるということなのです。小さな羊も、ハンディのある羊も、人並みに身の回りのことができない羊も、良い羊飼いにおいては、立派でいろんなことができる羊と同じく大切で、愛おしい存在であるということが、名前を呼ぶ行為には表れています。つまり、形容詞的な表現で呼ばれるのではなく、その人にだけ与えられた名前が呼ばれるということは、その人自身が呼ばれ、その人の中に眠っているものが呼び出されるということです。そこには、呼んでくださる方との人格的な交わりが始まっています。

こうして互いに名前を呼び合う関係は、互いのことを信頼し、尊重し合う関係、対等な関係であるということ。イエスさまは、お弟子さんたちとの最後の夜を過ごされたときに、「私はもはや、あなた方を僕とは呼ばない。僕は主人がしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである」(ヨハネ15:15)とおっしゃってくださいました。「私はあなたがたを友と呼んだ」。私たちがイエスさまに「友よ」と呼ばれ、イエスさまを知り、イエスさまに知られる全人的な関係性の中にいるということです。そしてそれは、イエスさまとの関係も対等でありますから、羊同士、人同士の関係はなおさらのことです。

マタイによる福音書20章には、ぶどう園の労働者のたとえ話があります。ぶどう園の主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて、一日一デナリオンを支払う約束をして人を雇います。また、九時ごろ、十二時ごろ、午後三時ごろにも雇い人を探して出かけます。そして最後には五時ごろにも出かけ、広場に立っている人をぶどう園へ送ります。この物語のクライマックスは、一日の働きが終わって約束の賃金を支払うときです。ぶどう園の主人は、午後5時になって来た人にも、夜明け頃から来て働いた人にも等しく一デナリオンを支払いました。しかし、夜明けとともに来て働いた人はその主人の振る舞いを見て言います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは」と不平を言うのでした。ごもっともな不平の言葉と思います。しかし、主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物をしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前の良さを妬むのか」と。

ぶどう園の主人は、不平を言う雇い人を「友よ」と呼んでご自分の気持ちを伝えています。雇われた人と主人は、一日、一デナリオンという契約関係で結ばれたのです。主人と雇い人の関係で結ばれました。さらには、主人に対して不満を言っている、その人のことを主人は「友よ」と呼ぶ。不平を言う人から見れば、この雇い人は人の働きなど評価できない、身勝手なお金の使い方をしている人のように見えたのかもしれません。

しかし、主人は、初めから、自分と雇われた人との間に隔てなどおいていないことがわかります。つまり、このぶどう園では、夜明けとともにすぐ雇われるような能力のある人も、誰にも雇われずに一日広場に立ち尽くすしかない人も、一デナリオンの約束の中に生きるのにふさわしいものなのです。

それが神の国の在り方です。この世はできるかできないか、持っているかいないかによって人を分け隔てますが、神の国は、慈しみ深い神さまの愛の中で、だれもがそのままで迎え入れられるのです。ありのままの私、それが神の国へのパスポートなのです。

本日、「私は羊の門である」とおっしゃるイエスさまは、その門から入る羊を知っていてくださっています。知っておられるというということは、その人の内面の深い孤独を共有してくださっているということです。一日広場にいても、誰からも声をかけられず、相手にされないまま立ち尽くすしかないみじめなこの私。何のために生まれて、何のために生きるのかわからない混沌とした人生、だからギクシャクした世間に対して不平不満だけが募っていく、その孤独でみじめな私を、イエスさまは「友よ」と呼んでくださっている。その私のただ中に入ってこられて、私の弱さを共有してくださっている。その方が神の国の入り口の門であって、その私をそのまま神の国へ導いてくださいます。

しかし、その門を通らないで、ほかの所を乗り越えて入る者がいるとイエスさまは語られます。盗人であり、強盗のように、乱暴に羊の所に入ってきて、羊を盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする人がいると。このイエスさまの言葉に心の耳を傾けてみたいと思います。この言葉はファリサイ派に向けて語られました。しかしファリサイ派はその言葉の意味がわかりません。つまり、当時、ファリサイ派の人々は、それこそ羊のように、汚くきつい働きにつくしかない人たちを、罪人扱いをし、礼拝堂に入ることを許さず、神の救いから遠い者だという教えをしていました。それは、罪びととレッテルを張った人たちから神の国を取り上げてしまっていたということなのです。一デナリオンの約束が、まるで自分たちとだけ結ばれているかのように神を捉え、神の国を独り占めし、他の人たちを搾取するような教えでした。

私たちの教会はどうでしょうか。慈しみ深い神の愛を求めている人々に対して、気前の良い神さまの愛の姿を表しているのでしょうか。それともケチっているのでしょうか。教会の入り口は、教会の門はイエス・キリストです。イエスさまは、ありとあらゆる壁を壊し、死の世界をも超えて命の世界を生きられる方です。それなのに、私たちはどこかで自分が作った律法の世界に人や自分を閉じ込めていないでしょうか。

多くの人が国を追われ、社会の中心から追いやられ、家族の輪の中にも入っていけず、友達の輪の中にも入れないまま生きています。イエスさまは私たちの声を必要としておられます。このような孤独は人々に「友よ」と呼びかける私の声を必要としておられるのです。そのためにも、今日、まず私たちがイエスさまに「友よ」と呼ばれているその声を聞きましょう。「友よ、出てきて、あなたの囲いから出てきて、牧草地が広がる命の広場へ入っていこう、生きる者になろう」とおっしゃるイエスさまのお声。このお声を聞き分けることが、羊として果たす私たちの仕事です。

良い羊飼いイエスさまの声を聞き分け、イエスさまについていって牧草地に着くと、そこには、私が嫌いな人も来ているのかもしれない。しかし、その人も自分を呼ばれるイエスさまの声を聞くしかなかった寂しい人なのです。この世の敵が神の国では一緒に食卓を囲む「友」になります。みんなで一緒に、神様が整ってくださる食卓に集うのです。その食卓には、平安や喜び、愛や憐れみ、慈しみという食べ物が豊富に整えられています。それらをいただいて、満たされて、感謝の日々を生きられますように祈ります。

 

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