恐れるな おびえるな

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ヨハネによる福音書14章8~17、25~27節

心を騒がせるな おびえるな

今日は、聖霊の赤い炎を表すために、私たちは赤色を身につけてきています。聖卓の布もバナーもストールも赤です。さらには、使徒言行録を各国の言葉で拝読しました。日本語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ギリシア語、韓国語。

聖書朗読をされた皆さん、いかがでしたか。久しぶりに使う言語、一所懸命に練習された方もおられると思います。私の母語は韓国語ですが、久しぶりに声に出して読み、胸が熱くなりました。言葉は本当に力をもっているのだと思いました。

普段、私たちは日本語に訳された聖書を読んでいます。翻訳されたものには、それなりの限界もあります。

新約聖書に収められている書物が書かれたのは、AD50年~150年の間です。これから約2千年前のことです。そこには、書いた人や共同体が抱えていた背景があります。また、書かれた地域の文化や習慣があります。しかも、今は使われていない古代ギリシア語で書かれました。日本語で読めることは大きな幸いですが、一方で何らかの学びがないままに一気に理解しようとするのは難しいと思います。

つまり、出来るだけ本来の意味に近づいて理解したいのなら、私たちは二千年前に遡っていくようにして、ゆっくり、じっくりと学ぶ必要があると思います。

牧師たちが説教を準備する際には、与えられた個所を何度も繰り返して読みながら黙想をします。そのあとで、原語から意味を探り、そのようにして説教が整えられて行きます。最近、牧師たちがあまりにも忙しくなり、原語に当たる時間が省かれてしまうことが多いのですが、それはとても残念なことです。

与えられた御言葉を、日本語で何度も読み、じっくりその言葉の中に耽り、御言葉を味わうということは、自分自身のことを考える時も同じことが言えると思います。名前や家柄、またはどんな仕事をしているかという表面的な情報をもって表される自分が私のすべてではありません。私の中には、私の先祖の代々の遺伝子が含まれています。遡ろうとしたら、何百年を遡るかわかりません。その私を本当に知りたいときには、自分の中に納められている先祖代々を辿り、自分の中の目に見えない性質や志向などに気づきながら、私という一人の人に出会うのだと思います。ですから、ある人は、「私が歩くというとき、それは私一人が歩いているのではなくて、代々の先祖たちと一緒に歩いている」と言っていました。

相手のこともそうです。「あの人が何を考えているのかわからない」。同じ言葉を使って会話をしても、通じない場合があります。それは、何十年を一緒に暮らしている夫婦の間から出てくる言葉です。そこで私たちは、相手と誠実に向かい合い、互いをじっくりと味わい、その違いによって豊かさを見出すようにと招かれています。しかし、私を含めて多くの人は、自分との違いに苦しみ、そこに留まってしまいます。それが、聖書が言う「罪」だと思うのです。相手を自分に強いる生き方、弱い方を強い方に強いる生き方、聖書の言葉に自分が読まれるよりは、自分が読みたいように読み、場合によってはみ言葉を武器のように人に向かって発する生き方をします。

今日、イエスさまはこのように勧めておられます。

私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」と。

イエスさまは、平和を、この世が与えるようにではない形で与えてくださると約束しておられます。つまり、私たちが幸せになるためのものを、この世が与えるようにではない形で与えてくださるとおっしゃっておられます。

この世では、良い大学を出て、良い企業に勤め、それなりの年収を得て、結婚をして、子どもがいて、家があって、病気がなく、老後の生活が保障されている状態を幸せな人生と言います。しかし、このような価値観の中にいるとき、人は、本当の自分を失ってしまいます。特に資本主義の中で生まれ育った私たちは、資本主義に対する疑問を持つ余裕もなく、知らないうちに自分より成果やお金を重んじるような仕組みの中を生きています。自分の人生の主役をそれらに譲って生きているのです。そこでは、恐れと不安が付きまといます。常に競争があり、人との比較の中で、どれだけ達成したのかという成果が求められます。教会の中にもこの成果主義は深く浸透しています。そこには平安を見出す場はありません。

イエスさまは、「(私が与える平和は、)世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」とおっしゃいます。この世が求める条件を何一つ備えていなくても、そのままのあなたが私にとっては一つの大きな宇宙であり、すべてが備わっている者として生かして守る。だから、人と比べなくてもいい、人を強いたり人から強いられたりしないで、あなたはあなたのままでいい、あなたは私の聖なる者であるのだから、と。

先ほど拝読された旧約聖書の創世記11章の中の人々と神さまのやり取りは、このイエスさまのお言葉を良く現わしていると思います。

創世記11章は、「全地は、一つの言語、同じ言葉であった」と記すことから始まっています。同じ言葉を使って同じように話す人たちは、「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう」(創11:4)といって塔の建設を始めました。

この人々の企てに対して神さまはこのようにおっしゃっておられます。

彼らは皆、一つの民、一つの言語で、こうしたことをし始めた。今や、彼らがしようとしていることは何であれ、誰も止められはしない。さあ、私たちは降って行って、そこで彼らの言語を混乱させ、互いの言葉が理解できないようにしよう」(創11:6~7)と。

まるで神さまはいたずらな方のように描かれています。さらには、人が自分より名を上げて有名になるのを嫉妬しておられる方のような書き方です。しかし、ここにはとても大切な神さまのみ心があります。それは、イエスさまが言われたお言葉、「心を騒がせるな おびえるなあなたの心を平和で満たしなさい」というメッセージです。人は、心に恐れや不安を抱くときに人と自分を比べます。そして、弱い者を自分に強いて同和させようとします。弱い人が持っている言語を奪い、名前を奪い、文化を奪って従わせようとします。恐れと不安がそうさせるのです。

韓国に、三年峠伝説があります。昔の人たちが長距離も歩いて行き来していた頃の話です。急ぐ用事があるときは夜も歩くことがあって、きっと凸凹した道で転んだりもしていたことでしょう。ある峠を越えるときに、そこで転んだら三年しか生きられないという話が伝えられていました。ですから人たちはその峠を歩くときは、転ばないように、転ばないようにと、とても気をつけていました。しかし、意識していると転んじゃうのですね。実際転んだ人は、もう自分は三年しか生きられないと不安になるわけです。そう思い込んで毎日死の恐れや不安の中にいると、長く生きる人も寿命が縮んでしまう。それで三年くらいで死ぬ人がいると、やはりあの峠で転んだら三年しか生きられないという話が伝えられました。

しかし、ある人がいろいろのことに失敗して、生きることに絶望して、だから死にたくて、その峠に来てわざと転びました。しかし、三年が経っても死ぬどころか、ますます元気になって、それまでよりも活き活きとしてきました。その人は、三年後には死ぬのだから、三年間だけは思い切り楽しもうという思いで生きていたら、長生きをしたという話しです。

恐れや不安から生まれる成果主義、功績をたたえる世界の中で、人と変わったことをすれば仲間はずれされるかもしれないという不安はより強くなり、または、人と異なる自分の在り方が嫌で閉じこもり、人に心を開くのを恐れてしまう私たちの弱さを、イエスさまは良く知っていてくださいました。そのあなたのただ中に、私が、「平和」という名前で、「幸せ」という形で共にいる。だから恐れるな、この世の力におびえるな、と。

そのメッセージを誰よりも先に受け止めた弟子たちが集まって祈っているときに、聖霊が降りました。すると、それまでに人々を分けて区別し、互いが地位争いをしたり、人へ責任を転嫁したりして分裂を生み出していた弟子たちは、福音を告げる人に変えられました。全く異なる言葉を話す人たちの不安や恐れを、偏見や差別を追い出す働きをする人に変えられました。先ほど、いろんな国の言葉で読まれた使徒言行録の続きでは、天下の多くの国々から集まっていた人たちが、弟子たちの説教を自分たちの故郷の言葉で聞いています。

つまりそれは、国籍や言語の違いや、話す言葉の違い、肌の色や目の色の違い、または男や女で人を区別するのではなく、一人一人の中に与えられている神さまからの賜物の違いを豊かさとして喜び、その人を受け止めるということ。神さまは、すべての人間、動物や植物や鳥や魚、何一つ同じく造られませんでした。それは、人も他の被造物も、それぞれ各自の賜物や文化をもって生き、それらの違いをもって助け合って生きるようにするためでした。それが失われる時に、神の国はないがしろにされます。

聖霊の豊かな働きに自分を委ねて祈る日々を過ごしましょう。そこで、もっと自分を知り、自分と異なる人と出会い、自然と出会うのです。そして、それらによって自分が生かされていることを感謝しましょう。