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 マルコによる福音書10章35~45節

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最近、お風呂に入りながらユーチューブを見るのが楽しみの一つです。ユーチューブを見て終わると、必ず「いいね」と「チャンネル登録」が求められます。もちろん、好きで見ている番組なので、その度「いいね」を押していますが、先日、朝日新聞の派遣記者の記事を読んで、考えさせられることがありました。

記者が中国東北部の吉林省に出張して、ホテルに泊まっていたときの話でした。チェックインをして部屋に入って仕事を始めようとしたら、フロントから電話がかかってきました。それは、「お客様は朝食抜きのプランを予約していますが、今回特別に朝ごはんをサービスさせていただきます」という内容の電話だったそうです。それは、内心嬉しい話でしたが、彼は太り気味の体のことを考えて、普段から朝ご飯は抜いていたのです。複雑な気持ちで「ありがとう」とは返事したものの、結局、次の日の朝食はパスしました。しかし、ホテルのマネージャーから、ぜひ、サービスを受けて、ネットからこのホテルのことを「いいね」と押してください、そうすれば自分たちのホテルはトップにあがることになりますという必死な話があったそうです。記者は、中国のホテル業も大変な時代を迎えているのだと書いていました。

以前、私も皆様に同じことをお願いしたことがあります。教会のホームページを一日一度は見るようにしてください。アクセスの数が増えれば、藤沢市内で鵠沼めぐみルーテル教会がトップにあがるようになりますし、それが伝道につながりますという話をさせていただきました。そのためには私がホームページの更新を誠実に行うことが欠かせませんが、がんばります。

そして、コロナ禍の間、礼拝説教が毎週ユーチューブにアップされています。ユーチューブから説教を聞いている皆さんは、聞いてから「いいね」を押していらっしゃいますか。もし、聞いた説教が良かったのでしたら、ぜひ「いいね」を押してくだると嬉しいです。もちろん、その反対の評価をくださっても全く大丈夫です。

今は、インターネット環境が整い、情報が氾濫している時代です。教会もインターネットを使って社会に対してメッセンジャーの役割を果たすときがきたと思います。

以前はインターネットを通して礼拝をするということに、違和感がありました。やはり一つの場所に集まって、気持ちを一つにしながら礼拝をすることこそ真の礼拝と思っていました。しかし、そうやって理想を追求していても、一方で福音を求めている無数の人々がインターネットの向こうにおられることを思うと、自分たちができる範囲で、そのような人々に福音を届けていかなければならないと思っています。

さて、ゼベダイ子のヤコブとヨハネはイエスさまの前に進み出て、イエスさまが栄光をお受けになるときに、イエスさまの右と左に座らせてほしいと願いました。彼らの話を聞いた他の弟子たちは腹を立て始めます。イエスさまが栄光をお受けになるときに、その右と左に座りたい、人々から敬われる偉い座につきたいという願望は、ヤコブとヨハネだけではなく、他の弟子たちの中にもあったのです。

イエスさまはヤコブとヨハネに向かっておっしゃいました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と。そして聞かれます。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。すると彼らは答えます。「できます」と。

私自身も、何度彼らのように答えたことかわかりません。心が燃えていた若い頃、迫害を受けても、山越え、谷を越えて、命をささげる覚悟で、イエスさまの福音を伝える人になりますと言って献身したのでした。しかしいざというときになると、自分自身の宣教のヴィジョンを実現しようとして、イエスさまのこと、福音のことは考えないのです。それは、一度二度ではなく、何度も、今もあります。ですから、ヤコブとヨハネが「できます」と答えたときの気持ちがよくわかります。決して嘘の答えではありません。

しかし、イエスさまが、ユダヤ人の大祭司や長老たちから不適切な扱いを受け、ローマの権力によって十字架刑という死刑宣告を受けて苦しみの道を歩まれるとき、彼らは逃げ回るしかありませんでした。自分のいのちを奪われるのが怖くて、隠れている部屋から外へ出ることさえできなくなりました。

復活のイエスさまに会い、イエスさまの昇天に立ち合い、ペンテコステの日に聖霊に満たされるまで、彼らは自分のことしか考えられない、私たちとそれほど変わらない人たちだったのです。そのことをよく知っておられるからイエスさまはこう語られたのです。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42b~44節)と。

ヤコブは、弟子たちの中で唯一その死の記録が聖書に残っている人です。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使徒12:1~2)と記されています。

イエスさまの死後、ヤコブは、エルサレム教会で中心的な人物でした。しかし、使徒言行録にその死の記録が残っているように、彼は、ヘロデ・アグリッパによって首をはねられます。ヘロデ・アグリッパはローマの恩恵をたくさん受け、ローマ側に沿った政策をしていたためにユダヤ人には嫌われていました。それで、当時ユダヤ人が懸念していたキリスト者たちを迫害することで、ユダヤ人の心を自分に向けさせたいと思ったのです。真っ先に指導者の立場にいたヤコブが首をはねられ、その後、多くのキリスト者たちへのローマの迫害が始まります。

9世紀にヤコブの遺体がスペインのサンディアゴ・デ・コンポステーラで奇跡的に発見されたとされ、そのときはスペインが戦争で大変なときであったこともあり、ヤコブはスペインの守護聖人とされます。そのため、サンティアゴ・デ・コンポステーラは西方カトリック教会によって代表的な巡礼地となり、三大巡礼地の一つに数えられるに至ります。

一方、ヨハネの方ですが、ペトロとペアを組んで福音宣教をしている姿が使徒言行録にも描かれています。その後、ローマの迫害が起きたとき、煮え立った油の大きな釜の中で殺されるところでしたが、奇跡的に助かります。その後、パトモス島に島流しされ、そこで預言的な書物、黙示録を書いたと伝えられています。のちに解放され、今のトルコに戻って天寿を全うしたと伝えられていて、弟子たちの中で、唯一平和になくなった人物です。

従います、イエスさまのようにできますと自信を持って告白しつつも、権力や富の前では弱く、自分自身を捨てることができなかった弟子たち。彼らは変えられました。復活の主との出会い、その後聖霊を受けることによって彼らは、自分のためにではなく人のために、イエスのために、神の国の福音のために生きる者に変えられ、地の果てにまで遣わされてゆきます。どんな迫害の中でも恐れることなく仕える者として生かされました。イエスさまから、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われたとおり、生きたのです。

それは、野心家だった人がいきなり聖霊の力によって変ったという話しではありません。常に先頭を歩きながら見せてくださったイエスさまの御姿、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)という、人のために仕える御姿に触れ、彼らが弱さを見せる度にイエスさまから背中を押していただいたからです。

弟子たちの中にある野心、自己実現欲、この世での繁栄欲など、イエスさまはすべてご存知でした。それでもイエスさまは、その度、弟子たちを「いいね!」と、そうかできるのか、そうできるよと押して彼らを受け入れて励まし、ご自身自ら彼らの足を洗い、彼らに仕えてくださいました。

イエスさまは私たちの弱いところ、汚いところを洗いながら、私たち一人一人の人生の歩みをご覧になっては、「いいね!」と押してくださっています。イエスさまの「いいね」によって、私たちは、自分の人生の道にだれよりもアップされて先頭になりました。多くの声が私たちをこの世の富と力に誘いますが、その声を後にして、イエスさまの一押しをいただいている者として、福音を生きる道を今週も歩きましょう。

 

希望の源でおられる神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。