自分の足で立ちなさい

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マルコによる福音書6章1~13節

自分の足で立ちなさい

「牧会にたずさわる者は、いつでも荷物をたたんで引っ越せるように準備していなさい」と、神学校の卒業の時に恩師から言われて、「はい」と返事はしましたが、一度も守ったことがありません。

私の暮らしの中には物がたくさんあります。一つ一つが、必要なものと思い込んでいますから、処分できません。ですから、スーツケース一つで直ちに次に移るようなことも難しいのです。本日の福音書を読みながら、伝道者としての私の力量が問われていると感じました。

イエスさまは、弟子たちを派遣する際に、「旅には杖一本のほかに何も持たないように」とおっしゃいます。パンも、袋も、お金も持たない。つまり、食べ物も、何かをストックできる袋も、役に立ちそうなお金も持たずに行きなさいと。せめて下着くらいは着替えがあっていいのではと思いますが、下着も二枚は着ないようにと告げておられます。ただ杖一本と履物だけで出発しなさいとおっしゃるのです。

暑いパレスチナ地方をどこまでも歩き続けるための履物と疲れたときの支えとなる杖だけで出発するのです。杖はとても役に立ち、獣(けもの)や害虫から身を守る武器にもなります。そして何よりも、杖は神さまから与えられた権威のしるしでもありました。履物と杖一本だけで歩き続ける伝道者の姿。その姿に自分を照らしてみると恥ずかしいばかりです。

しかし、ここで大切なことが記されています。弟子たちの財産は、実は、杖一本と履物だけではなかったのです。他の二つの重要な財産のことをイエスさまは弟子たちに伝えています。一つは、イエスさまから授けられた「汚れた霊に対する権能」です。これこそ、伝道者にとって最大の財産です。そしてもう一つの重要な財産は一緒に遣わされる仲間です。弟子たちは一人ではなく、二人がペアになって遣わされたのでした。一人で歩いてはならないと言われるのです。同じ道を一緒に歩く仲間がいるということは、一人で多くの財産をもっていることよりはるかに豊かなことではないかと思います。

私が家で、朝と晩、祈りの部屋で座るとき、特に夜、蝋燭をつけて座っていると猫が傍に来て座ります。座布団を広げて少しスペースを空けておくと、そこに来て一緒に座ります。そして、一緒にじっと蝋燭を見つめてくれます。それが、私にとってどれだけの力になるのかわかりません。神さまが彼女を通して「あなたは一人ではない」と語りかけておられるように感じるのです。彼女は、私が疲れているときに癒してくれます。猫であるけれども、話しが通じるような気がします。きっと神さまが一緒に遣わせてくださった、私の立派なパートナーです。

そして、私がこの教会からこの地域に宣教のために遣わされるときも、私には共に遣わされる仲間が必要であり、皆さまがその仲間・パートナーなのです。

こういうパートナーと共に「汚れた霊に対する権能」という内なる力を授けられて、大きな信頼のうちに履物と杖だけを手にして遣わされてゆく。それは、イエスさまが示してくださった宣教者の基本的な姿です。この姿をどれだけフルに表して宣教するのかということが私(たち)に問われています。

本日の旧約聖書のエゼキエル書2章1~5節では、エゼキエルに神さまからの託宣が告げられています。

エゼキエルは祭司の家で生まれました。本日読まれたエゼキエル書2章で、彼は、預言者としての召命を受けて遣わされようとしています。彼は、祭司の家庭で育ち、宗教的雰囲気にも慣れていて、何か問題が起きたら祭司である父親に相談もできる、そういう恵まれた環境に暮らしています。

しかし、神さまは、「人の子よ、自分の足で立て」と命じておられます。「自分の足で立ちなさい」。祭司である父親に依存してはならない、育った環境の中で慣れ親しんできたものに頼ってはならない、血縁関係を経ち、家を離れ、神であるわたしがあなたに授けたものによって立ちなさいと告げておられるのです。つまり、「神ご自身の力によってのみ神の言葉が純粋に宣べ伝えられる」ということを、神さまはエゼキエルに伝えようとしておられるのでしょう。

本日の福音書で、イエスさまご自身も、お育ちになったナザレでは人々から受け入れられません。ナザレの人々はイエスさまのことを、大工ではないか、マリアの息子で、ヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか、彼の姉妹たちとここに我々と一緒に住んでいるではないかと、イエスさまについての表面的な情報をすべて並べています。それは、自分たちが知っているイエスが、知恵ある言葉を語ったり、病人を癒したりする業を行えるはずがない、あのマリアの家からそんな人が生まれるはずがないと軽蔑し、イエスさまの宣教のわざを否定しようとする態度です。

そういう村人たちの不信仰にイエスさまは驚いておられます。イエスさまを驚かすほどの不信仰の人たち。彼らが、イエスさまの行うことが信じられないのは、ただ小さい頃から彼をよく知っているというそれだけが理由でしょうか。イエスさまに信頼を置けないこの不信仰な村人とはいったいどういう人々のことなのでしょうか。

私たちもイエスさまを知っています。ベツレヘムの家畜小屋でマリアから生まれてナザレで育ち、大工として働かれ、神を冒涜した罪で三十三歳のころ十字架刑に処せられ、三日目に復活なさった方。さらには、イエスは神の独り子で、私たちの罪を担って死んでくださった方。しかし、そのような知識が単なる言葉を並べることで終わるときに、これらすべては表面的な情報に過ぎません。そうではなく、イエスさまが、私の罪を背負って歩かれた十字架の道がいったいどういう道なのか、その道を自分の足で歩くこと、つまり、自分も他者の過ちを背負って歩くときに、私たちはイエスさまとその福音に、心と体で一つにされてゆくのです。そのためには、必要以上に多くのものを持っていないこと、物理的な物ばかりではなく、精神的な面においてもこの世の知識や情報的なもので自分を満たさないことが大切でしょう。必要以上に多くのものに囲まれていては、私たちの心と体がイエスさまとその福音に、一つになって行かないからです。結局は、情報的なものが私たちの信仰の足になってしまうからです。

ですから、「自分の足で立ちなさい」とエゼキエルに告げられた神さまのお言葉は、私たちをイエスさまの内面の豊かな世界へ招く、招きの言葉なのです。私たちが、その招きを受け入れてイエスさまの中へ入って行くときに、はじめて私たちは自分の足で立つようになるのでしょう。イエスさまと私との間に深い信頼がそこから生まれるのです。

そしてそのとき、自分の中に授けられている宝に気づきます。それは、洗礼のときに授かった汚れた霊に対する権能と一本の杖です。それは、まず人を赦す言葉として現れます。私に対して過ちを犯した人に「もういいよ」と言える広い心。次に、今なお、暗闇の中で自責の念のうちに苦しんでいる人に、光を灯すような温かい励ましの言葉。さらには、病気の人の体にそっと手を置いて祈ること。世界の平和を求めて、今自分が置かれている家庭や職場などで平和を実現していこうとする姿。貧しい人とそっと自分のものを分かち合う謙虚な姿。

何歳になっても私たちはこの道を歩き続けるようにと招かれています。この招きは終わることがありません。さらに嬉しいことに、この道を歩き続けるときに、自分の傍で一緒に歩いてくれている尊い友の姿に気づくのです。そして、この道を歩く人の履物は、どんなに長く歩いても減ることはありません。

「人の子よ、自分の足で立ちなさい」。この招きの言葉に応えて歩き出したいのです。皆さんは信徒伝道者として、私は牧師として、互いに福音宣教の道に、今週新たに歩き出しましょう。

 

望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。