出会いは回り道で

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マルコによる福音書5章21~43節

出会いは回り道で

「急がば回れ」という言葉があります。急ぐ思いで焦り、かえって余計に間違えたり、失念したりして、進めようとしていることが遅くなってしまうので、急ぐことほどゆっくりしなさい、近道より遠くても確実な方法をとりなさいということわざです。

しかし、現代のデジタル時代でこのことわざはどれだけ生かされているのでしょうか。今は何でも即決できる時代です。知らない言葉でも、スマホで探せばすぐ意味が出てくる時代です。人を介さなくてもインターネットで食べ物や生活品のほとんどの買い物ができます。映画館に行かなくても自分の家で映画が観られますし、コロナのおかげで会議も家でできるようになりました。疑問の答えがただちに手に入り、家の中にいてもすべてが解決できるので、本当なら時間の余裕が生まれるはずです。しかし仕事はますます増えるようです。さらには、人間関係でなお悩むようになり、便利で楽なはずなのに、心は荒んでいます。回り道をする暇など考えられない状況です。

そういうデジタル化の進む時代のど真ん中にいる私ですが、先週の火曜日は高尾山に登ってきました。梅雨の最中に山に行けるとは思っていませんでしたが、雨が降らないことがわかり、ルターハウスから行けば便利なところなので、あえて決行しました。とても清々しくて来てよかったと思いました。しかし、一緒に行った友人から、何度も「ゆっくり、ゆっくり」と言われました。言われて自分の歩き方に意識を向けてみると、頭の中では仕事のことを考えていて、気づかないうちに歩き方も速くなっていました。歩き方に内面が良く現れるのですね。

大自然の中に自分を委ねると、自分の内面の状態がわかるようになります。仕事の量を考えると、山に行く余裕などないように思えても、「急がば回れ」という言葉を大切に、忙しさの中に憩いのときを大切にできたらと思います。一歩一歩、急がないで、深呼吸しながら生きるのです。

イエスさまも回り道をしておられます。会堂長のヤイロの娘さんの病気を癒しに行く途中、十二年間も出血が止まらない病気にかかっている女性と出会い、立ち止まり、この女性に心を向けられます。目的地に向かうところで他の要件のために途中下車しておられるイエスさまの姿は、子どもを救いたいヤイロの必死な思いを無視しているようにさえ見えます。弟子たちも、そのイエスさまのことが理解できないようです。

しかし、イエスさまは足を止められました。そして、「わたしの服に触れたのはだれか」と、大勢の群衆からその人を探し出そうとしておられます。仏教には、「袖振り合うも多生の縁」という言葉がありますが、イエスさまの姿はまさにその言葉に当てはまります。

「わたしの服に触れたのはだれか」とイエスさま問われると、弟子たちは「これほどの群集があなたに押し迫っているのに、その中から誰が触れたかとおっしゃるのですか」と訴えます。しかしイエスさまが探しておられるのは、単なる群集の中の一人ではありません。「この方の衣にでも触れれば病が治るかもしれない」という、必死な思いで、勇気を絞り出してやっと触れることができた、その人を探しておられるのです。イエスさまの前に名乗り出たのは、十二年間も出血が止まらない病気にかかり、そのために全財産を費やした女性でした。

イエスさまが必死に探しておられるのを知った女性は、震えながらイエスさまの前に出てひれ伏します。「わたしです。わたしがあなたの服に触れました。あなたの服にでも触れたら直ると思って勇気を出して触れました」。そして、十二年間の病歴をすべてイエスさまの前に告白します。あの医者この医者、名医と言われるところにはすべてかかっても治るどころか、ますます悪くなるばかりで、ついに全財産を使い果たしてしまいました。

さらには、十二年間も出血が止まらなかったということは、ユダヤ教の律法からは汚れているので、彼女に触れる人も汚れることになりますから、誰も彼女に関わろうとしなかったはずです。すべての隣人から切り離され、彼女は一人で病気と闘ってきたのです。その彼女のイエスを求める思いがどれだけ必死だったのか、察することができます。

彼女からすべてのことを聞かれたイエスさまは彼女に告げられました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。

しかし、このイエスさまのお言葉がまだ終わらないうちに、会堂長のヤイロの家から知らせが来ます。「お嬢さんは亡くなりました」という知らせです。この知らせを聞いて、お父さんのヤイロはどんな思いだったのでしょう。私だったら回り道をなさっておられるイエスさまが憎かったと思います。その場にいる弟子たちを含め、群衆のほとんどが、「ほら、イエスさま、余計なことをしておられるから間に合わなかったでしょう」と思ったのではないでしょうか。

イエスさまの時代も、デジタル化された今の時代も、人が思うことはそれほど変わりません。いつの時代も打算的です。評価し、評価される中で物事を捉え、人を判断しようとするのです。できるかできないか、心地いいか悪いか、このような観点からしかものごとをはかろうとしない、それが人のやることなのかもしれません。

ヤイロの家では、イエスさまの到着が遅れて、子どもはもう死んで横たわっていました。人々は深く悲しみ泣いています。そこでイエスさまは彼らに向かって言われました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と。すると、人々はイエスさまのことをあざ笑っています。「人々はイエスをあざ笑った」と書かれています。

しかしイエスさまは、あざ笑われても、人にご自分がどう評価されるかには関心がありません。さらにはご自分が人を評価することもなさいません。イエスさまは、愛することしかなさいません。それがすべてだからです。慈しみ深い神さまの思いをこの世界であらわすこと、病気にかかっている人を癒し、死んだ人を生かして、ただただ愛するということ、それがイエスさまのすべてです。

このイエスさまを自分に引き寄せた女性。十二年間も出血が止まらず、医者にかかってもますます悪くなるばかりで、全財産を使い果たし、隣人からも切り離されていた彼女は、イエスさまとの出会いによって、病気が治ったばかりではなく、さらにすばらしいことに気づいたと思います。イエスさまから、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」という言葉をかけられたとき、彼女は確信したのです。自分の価値は人の評価によって決まるものではないと。

つまり、人の尊厳は、人からの評価でもなく、お金によって手に入れられるものでもない。律法でもない。ただただ愛してくださるイエスさまとのかかわりの中でのみ、自分の本質にある尊厳が甦らせられる、そのことを彼女は知ったのです。新しい始まりを彼女は迎えました。復活の命が彼女の魂から湧き出るようになったのです。彼女はもはや何にも束縛されない自由を得ました。神の創造の業の中にある自分に出会ったのです。

この女性の物語の中に私たちの物語があります。イエスを信じるという生き方は、周りの人から見ると遠回りしていて、つまらない生き方のように思われるかもしれません。日曜日に、他の楽しみもあるのに教会に行って一日を費やするなんて、さらには献金を献げることも理解されないかもしれません。

私も、故郷に帰ると高校の友人たちから言われます。日本にまで行って、もう少しお金になる仕事をしたら?いつなったら家を買い、安定して暮らすようになるの?と。どうして日本に来てまで牧師をしているのか、彼女たちにはわからないのでしょう。彼女たちに私は人生を遠回りして、無駄な生き方をしているように見えているのだと思います。私がここで皆さんと出会って、どんなに幸せなのか、彼女たちにはわからないからです。

私は幸せです。なぜならイエスさまが今日も立ち止まって振り向いてくださっているからです。今日も私を探してくださっているからです。私たちがどんなに遠いところへまで離れていくとしても、イエスさまはどこまでも私たちを探しに来てくださいます。そのイエスさまに気づくためにも、「急がば回れ」、時には神さまが造られた大自然の中をご一緒にゆっくり歩きましょう。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/Dohwa4cwSvY