成し遂げられた

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                  主の受苦日 聖金曜日      2021年4月2日(金)

ヨハネによる福音書19章17~30節

成し遂げられた

「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした」(ヨハネ福音書19章23節)。

服を四つに分けるという行為。どうして三つでも泣く五つでもなく、四つに分けたのでしょうか?

四つという数字。また、他でもなくイエスの服を四つに分けてしまうその行為は、衣を切り裂いている人の内面の状態が東西南北にバラバラになっていることを表していると考えられます。

罪のない人を十字架につけて、その十字架の上で苦しむ人の衣を脱ぎ取り、それを切り裂いて分け合うという、ある意味残酷な有様を描いています。

この彼らの行為には、苦しむ人への哀れな思いなど少しもありません。同情する姿などないのです。もう十字架の上の人は、ただのものに過ぎず、この世でのすべてのことから価値を見出せない人になってしまった、ということでしょう。

内面が一つではなく、ばらばらの状態の人間の姿。隣で人が十字架にかかって、苦しみもがきつつ血をたらして死んでいくのに、何も感じることなく、自分たちの利益だけに狂っている人の姿。

コロナ禍の中、頻繁に蜜を避けることが求められる中での聖金曜日に、私たちは、この兵士たちの姿に、今の自分たちの現状を重ねられないでしょうか。

特に、今年の聖週間は切実なのです。コロナ禍の中、さらにはミャンマの情勢が知らされる中で、今日のみ言葉を黙想する私には、新聞で報道されているミャンマの死者数やコロナで死んでいく人たちの数を知らされつつも、悲しいか?いいえ、動揺していないのです。心がそれほど敏感に動かされていない、その自分に気づいてしまいました。

その理由の中には、仕事の忙しさがあります。それで、本当にこれでいいのだろうかという問いかけだけは、自分の中にあります。

けれども、主の十字架の下にいて、イエスさまの衣を分け合う兵士たちと何が違うのだろう?同じなのです。

その兵士たちを十字架の上でご覧になられた主はこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、今、自分が何をしているのか知りません」と。そして、最後に主はこう述べられます。「すべては成し遂げられた」と。

この言葉は、隣で死んでいく、または自分自身がその人を死に追いやっている、その人を隣り合わせしていても、その自分が全く見えていない、今、自分が、何をしているのか気づかない、わからない兵士たち、そしてこの私を、私たちの弱さをすべて、ご自分の死の中に包んでくださっているお言葉なのです。

成し遂げられた!」この言葉は、神さまからの赦しが、私たちの側に与えられたということの宣言にほかなりません。このままの姿で、神の前に立っていいという宣言なのであります。

つまり、あのことこのこと、昔のこと、つい最近のことでも、もう少しちゃんとすればよかった、今この自分のままで良いのだろうかと、恐れの中にいる私たちに向かって、あなたはあなたのままで良い!生きてこられたその道のり、そのままで素晴らしいと、私たち一人一人の歩まれた人生の道を祝福してくださっているお言葉なのです。

ですから、これからは、隣人の苦しみや悲しみを心して感じられるためにも、計上されてくる数字で理解するのではなく、東西南北にバラバラ状態の心を一つに保つ作業をすることができたらと思います。それは、まずは、自分自身の体の動きに気づくことを通してです。

私の全人生を通して、生まれた時から私を支えてくれていた息の、微細な姿に気づくのです。私が嬉しかったときも、苦しかった時も、悲しみに暮れていたあの時も、悔しく怒り狂ったときも、どんなときも私を離れることなく、私の体を出入りしながら支えてくれている息に気づきたい。そして、この世を去る最期のときには、自分の鼻から入ってくる最後の息まで数えて、「ありがとう」と感謝の言葉を述べてみ許へ帰られるようになりたいのです。

それは、私の鼻から出入りする息のように、イエスさまは、静かに私の中で、私の傍で、私の後ろや前で、私の下で、私を支え、導き、私のわがままのために何度も十字架にかかって死んでくださっている。その隣人の姿に気づくためなのです。

「成し遂げられた」十字架の上での言葉、「あなたの人生のただ中で私の業は成し遂げられた」、「あなたのこれからの歩みの中でも成し遂げられる」、「あなたが死を迎えるその瞬間まで、あなたの人生は私の業が行われる豊かな大地である」と語りかけられるお言葉。「成し遂げられた」。この言葉を主の受苦日、聖金曜日に感謝していただきたいと思います。

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