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                    主の復活祭             2021年4月4日(日)

マルコによる福音書16章1~8節

そこで会おう

キリスト復活、実に復活。

皆さん、イースターおめでとうございます。

イースターは、年毎日付が変わります。今年はちょうど桜の満開の時期と重なると思って内心喜んでいました。でも桜の方が、気が早くて間に合いませんでした。私は、こうして皆さんと二度目のイースターのお祝いができることを、心より嬉しく思います。

イースターのお祝いは、初めの頃、教会が各地に広がっていく過程の中で、それぞれの土地の暦に基づいて祝われていたので、日付がばらばらでした。4世紀になってやっとイースターの日付の決め方が統一されました。「春分の日の後の満月の次に来る最初の日曜日」と。そうすると、3月21日が春分ですから、イースターは、3月22日から4月25日までの間のどこかの日曜日ということになります。その後も、独自の決め方をする教会は色々ありましたが、だんだんこの決め方が標準になりました。

さて、本日の福音。先ほど拝読されたマルコによる福音書16章1~8節です。

マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメ、三人の女性は、イエスのご遺体に塗ろうと、香油を準備しました。そして、安息日が明けるとすぐ、彼女たちは香油をもって、イエスの墓へ赴きます。お墓へ赴く彼女たちの心の中には心配事がありました。中に入るために、入口の石を取り除くことでした。

イスラエルのお墓は洞窟を掘って、その両側の壁に遺体を置くようにしていて、遺体の盗難防止のために、入口は大きな石で塞ぎます。その入口の石は、女性の力では転がすことが難しいほど大きなものでした。

ところが、お墓に着いてみると、もうお墓は開いていて、入口の石を取り除く心配はなくなりました。そして、せっかく買い求めた香油を塗る必要もなくなっていました。イエスさまのご遺体がお墓の中におられなかったのです。その代わりに、ご遺体が置かれていた場所には、白い衣を着た若者が座っていました。

その光景を目の当たりにして、「婦人たちはひどく驚いた」と聖書は書いています。彼女たちは、そこから逃げ去り、震え上がり、正気を失い、何も言わなくなったと聖書は述べています。

これが、初めてのイースターの朝の光景です。死がいのちに飲み込まれた、いのちが死の力を破って死者が復活した、ダイナミックな朝でした。それから2千年以上が経った今でも、人間が発明した科学の力では説明することも、証明することも出来ない、偉大な神さまの究極的働きが、女性たちの前で起きたのです。

命が死を飲み込むということと、それが起きるところ。人間はその場に立ち会うことができません。たとえば、お花や穀物の種が土の中で死んで、芽を出す瞬間さえも観察することはゆるされません。それは土の中という暗闇の中で起きる出来事だからです。見たいからといって土を掘り起こしたりすれば、種は、芽を出すことができなくなるのです。そっとしておく、それが人間にできる最善なことです。

しかし、ましてや死者の復活という、死と命が交錯する世界に、どうやって人間が立ち入ることが出来るでしょうか。それは恐ろしい世界、限界だらけの人間には理解できない神さまの世界なのです。

ですから、弟子たちは、何度も死と復活の予告を聞いていたのに、彼らは十字架の前で逃げ去りました。「あの人など知らない」と、イエスのことを否認しながら、自分の命を守るために逃げたのです。

そもそもその前に、イスカリオテのユダがサタンの協力者となって、イエスを祭司長たちに売りつけるようなことをしました。彼はイエスに弟子として招かれた、愛する弟子の一人でした。共同体のすべての会計を任されるほど、イエスさまの信頼も厚かったのです。

ところが、その彼の中にサタンは入り(ルカ22:3)、彼はサタンの協力者となるために、イエスを捨て、イエスを十字架刑に渡す策略に加担して、結局自分も自死してしまいます。

怖かったのです。死と対立して、命を生きるイエスに従うことが、多くの弱さを抱えている人間には怖いのです。

ユダが、銀貨四十枚でイエスを売りつけて裏切り、ペトロが知らないと否認して逃げ去り、他の弟子たちも皆イエスさまの十字架の下から逃げ去りました。彼らは、自分の命の最も近いところで働いておられる神さまの、死と闘うダイナミックな現場にとどまることが怖かったのです。

弟子たちは皆十字架の下から逃げて部屋の中に閉じこもっていました。女性たちも、復活の朝に起きた出来事の前から逃げています。白い衣をきた若者は言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(6~7節)と。こう告げられたのに、この女性たちは、だれにも何も言いませんでした。怖かったから黙ってしまったのです。

私たちも逃げています。そして黙ってしまっています。毎週の信仰告白の中では「体の復活を信じます」と口にしながらも、いざ自分の命が生きるか死ぬかという極限に触られると、イエスさまの十字架の下から逃げていきます。

自分の考え方、プライド、財産、名誉的なものや肩書き…これらのものが失われ、傷つけられそうになったときに、私たちは、それでもイエスさまの十字架のもとに留まることを選ばないのです。

ましてや、コロナ禍の中で、コロナにかかった人や医療従事者たちに対して、どれだけの偏見と差別の眼差しを注いだことか。他者を疑い、軽率にウイルスを運んでくる若者を責め、人と会うのが怖くなってどんどん家の中に閉じこもっているのです。そして、自分の心の部屋の入り口を、偏見という大きな石で塞ぎます。それはまるで、イスカリオテのユダのように、闇の力に協力して、命を裏切り、命から離れてゆく人の姿に他ならないのです。

ですから、今日、復活の朝、空っぽの墓に恐れ、震え上がる女性たちに告げられた言葉から学びたいと思います。「今年のイースターも祝会ができなくて残念だわ、桜も間に合わなかったし…」のような思いで、毎年巡ってくる行事の一つとしてだけ受け止めるのではなく、これこそ新しい始まりだ!と、喜び踊るような日にしたのです。

白い衣を着てイエスさまのご遺体が置かれたところに座っていた若者は彼女たちに、弟子たちとペトロに告げる言葉を委ねました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)。ペトロの名前が具体的に挙げられています。それはペトロがイエスを知らないと否認し、今、その心に大きな傷を負って閉じこもっている人だからです。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。この言葉は、私たちに、あなたの信仰の原点に戻るように、イエスと初めに出会ったところに戻って初めからスタートするようにというお勧めではないでしょうか。

弟子たちにとってガリラヤは、イエスさまに初めて出会った場所です。とてもまじめで純粋だったその頃、小さなことに驚き、笑い、人の悲しみに心動かされて涙を流していたあの頃。そこで会おう、そこからもう一度出発しよう、そのように復活の主は招いておられるのです。

マルコ福音書は、この言葉を最後に終わっています。この後の記事は後の世代が付け加えたものです。マルコは何を伝えようとしているのでしょう。人生に挫折して、生きることの意味がわからなくなり、自分の部屋に、心の奥に閉じこもっている人に、信仰の原点に立ち返って、最初の出発点から始めるように、そこからもう一度歩き出しなさい、歌い続けなさいと告げているのです。それは、あなたの部屋の入り口の石は、復活の主によってもう取り除かれているというメッセージです。

今はコロナが私たちを脅かしています。コロナが終わっても、次から次へと、私たちを脅かすことは生じてきます。しかし、あらゆるものが私たちを脅かしてきても、目を覚まして、本当に大切なことに心を向けるのです。そこに、私たちの命の道があります。それらしき噂やテレビや新聞や雑誌の情報に飲み込まれるのではなく、目を覚まして、本当の喜びと平和と正義の源に心を向けましょう。

そのためには、御言葉はわたしに、今日、何を告げているのだろう、イエスさまは今日私をどのように愛してくださっているのだろうと毎日自問するのです。好きになった人との初めてのデートに向かう心踊る気持ちのように、毎日が復活の朝のように、心を驚かし、時には戸惑い、時には歌いながら、自分の部屋をイエス・キリストの命の部屋にしましょう。もう恐れることはありません。この主の復活の朝、神さまの愛が私たちの心と生活の隅々にまでゆきわたったのです。

ユーチューブはこちらより ⇒  https://youtu.be/1VVGTHT-xBQ