主のみ名によって

Home » 主のみ名によって
20210107_104611132_iOS

鵠沼教会ニュース 1月

巻頭言

フィリピの信徒への手紙2:1~11

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

見知らぬところを訪問するときには住所が必要であるように、愛を求めるときには純粋さが必要で、笑いを求める際には心に届くユーモアが必要になり、やりがいを味わうためには努力が必要であると言われます。そして、愛と笑いとやりがい、この三つを手に入れるためには、真正性が必要だと言われます。真正性を真面目さと誤解して、ただ真面目でいれば愛も笑いもやりがいも手に入ると思う人もいます。しかし、真正性には融通性が求められ、爽やかな情熱が必要です。

新年、明けましておめでとうございます。どうか、新しい年が、融通性と爽やかな情熱を発揮して、笑いと愛とやりがいを求めて豊かに歩む、祝福された年になりますように祈ります。具体的には、一日の始まりに、神と出会う人々に今日の私をささげるために、「主のみ名によって祝福します」と祈り、一日の終わりには、神と、出会った人々に、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「明日もよろしくお願いします」と、語りかけて一日を閉じるようにしたいのです。こういう日々の繰り返しは、私の中の利己心や虚栄心を取り除き、私を他者とつながる喜びで満たしてくれるからです。どんな日も私たちにとってかけ替えのない大切な時です。そういう祈りを日々ささげながら毎日を大切に過ごすとき、笑いと愛とやりがいを生みだす爽やかな情熱が芽生えるに違いありません。せっかく、「おめでとう!」と交わして始めた一年、「良かった!」と、感謝して終える一年にしたいのです。

この新しい年に、どんなことが起きるか私たちには分かりません。しかし、どんなことが起きても、それをたんたんと受け止め、それでも良かったと言える、主の名によって歩む祝福された年として過ごせたらと思います。

 

 

カテゴリー