心の目が開かれて

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2025年6月1日(日) 説教

主の昇天主日

ルカによる福  音書24章44~53節

心の目が開かれて

 昨日の朝、雨の音にじっと耳を澄ましていました。昨日は風も強い日でしたが、じっと聞いていると風と雨が屋根の上でまるでダンスをしているように聞こえました。そのダンスの音を聞いている私は子どものようになり、私も招かれて一緒に踊っているのです。晴れていればテニスに行けたのにと、つまらない土曜日だと感じていた心がすっかり晴れました。雨と風のダンスは、私がネガティブな感情と一つにならないで、自由になる道に導いてくれたのです。大胆で力強い大自然との交わりは短い時間でしたが、私にとっては大いなる恵みを体験した大切な時でした。

 今日は主の昇天主日です。拝読された福音書の中の弟子たちは、イエスさまが自分たちから離れ、別れていくのに喜んでいます。以前の彼らの姿からは考えられないくらい、大きな喜びに与っています。それは、彼らの心に大きな変化があったということを現しています。つまり、イエスさまが彼らの心の目を開いてくださった。彼らが肉眼や人間的な尺度で物事を判断するのではなく、心の目で物事を見つめることができるようにしてくださったのです。それまで彼らの心の目は閉ざされていました。

心の目が開かれるということ。それなら、もっと早く弟子たちの心の目を開いてくださっても良かったのにと思うかもしれません。しかし、ふさわしいときがあるのです。神と人の出会いが実現するためには、昨日の朝、私が思いも寄らず雨と風のダンスに招かれたように、ふさわしいときがあるのです。毎日雨が降っていても、その度その恵みに与るのではありません。神さまは常に手を差し伸べておられるのに私たちが気づかないだけです。神さまはあらゆるものを通して私たちに招きの手を差し伸べておられるのです。

 弟子たちは、イエスさまとずっと一緒にいましたが、彼らの耳にはイエスさまが話される言葉の音は聞こえても、意味は理解できませんでした。彼らにとって、イエスさまは自分たちの出世に役立つ方、この人と一緒にいれば偉くなれる方、彼らはこのような野望の目でしかイエスさまを捉えませんでした。その彼らを私たちもよく知っています。マルコによる福音書10章には弟子のヨハネとヤコブの願いが記されていますが、そこで彼らはイエスにこう願います。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」(37節)。それを聞いた他の弟子たちについてはこのように記しています。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(41節)と。地位争いをしているのです。

 その彼らにイエスさまはこう勧めるのでした。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(43-44)。

 しかし弟子たちは、このイエスさまのお勧めの意味が分かりませんでした。「偉くなりたい者はみなに仕える者になりなさい」という勧め、これはまったく新しい道への招きの言葉です。この世の道とは真逆の道です。心の目が閉ざされている弟子たちに、イエスさまが示す道はまったく見えません。彼らは、この世での出世、成功にしか関心がなかった。心の欲望の視点からしか物事を見ることが出来なかったのです。

 そういう弟子たちの姿は私たちの姿でもあります。彼らのように地位争いはしていないにしても、私たちは、自分にとって役立つかどうかで相手の価値を判断しがちです。自己中心なのです。つまり、エゴと自分が一つになっている。そのとき、人は自分以外のものを自分のために仕えさせようとし、イエスさまが示された「仕える」という道から遠く離れてしまいます。私たちは、そのエゴと自分を分離させる必要があります。その作業をしていくことによって、心の目が開かれ、それまで見えなかった新しい道が見えてくるようになるのです。それは、教会の在り方も同じです。

 召天なさるイエスさまは弟子たちに使命を与えておられます。

 「あなたがたは、これらのことの証人である」(48節)と。

 証人とは何かを証する人のことです。イエスさまが勧めておられる証人、それは神を証する人のことです。どんな神を証するのか、それは、イエス・キリストの十字架の苦難と復活を示し、罪の赦しを宣言される神を証するのです。

 弟子たちは、イエス・キリストの十字架の苦難と復活を経験した人たちです。彼らの心の目が開かれる、それは、この経験が土台になっています。しかしそれは、きれい事ではありませんでした。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と誓い、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言って、ペトロという弟子は誓いました。しかし、イエスに十字架刑が言い渡される、その大祭司の中庭で彼はイエスを知らないと言います。目撃者から、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われると、「そんな人は知らない」(マタイ26章)と三度も否認したのでした。他の弟子たちも同じです。そして彼らは十字架に付けられるイエスの前から逃げて、部屋の中に鍵をかけて、二重三重にも心の扉を固く締めて閉じこもっていました。自分たちもイエスと同じく十字架に付けられて殺されると思い、人々を恐れて閉じこもったのでした。その彼らを復活なさったイエスは訪れてくださり、ありのままの彼らと向き合ってくださる中で、徐々に彼らの心の扉は開かれるようになったのです。彼らはそういう辛い経験を持っているのです。神を証するためにはその経験、自分への挫折が欠かせません。

 賢く生き、若さを保って活き活きとしていても、自己中心的に物事を捉えているかぎり、人は、思わぬことが起きれば虚しく崩れるしかありません。人は一生涯のうちに、望まぬときを迎えるのです。大切な人を失ったり、事業に失敗したり、事故を起こしたり事故に遭ったり、大病を患ったり、死と命の境をさ迷うようなときがあります。人生のピンチのときです。さらには、その泥沼から這い上がるための力など自分にはないと嘆くしかなく、頼りのない日々を過ごすときがあります。イエスの弟子たちにとっては、自分の中の貪欲の目から物事を捉えていた、その自分に挫折するときでした。ですから大切なことは、私が何と結ばれているのか、虚しいものらに絡みついたまま暗闇の中に閉じこもっていたりはしないかということに気づくこと。今日、心の目が開かれて大きな喜びに与っている弟子たちは、その暗いトンネルを経験した人たちです。自分の弱さや醜さをすべて経験し、自分自身に挫折した人たちです。

 しかし、それでも、そのあなたを愛すると宣言なさり手を差し伸べ、ご自分の道に招いてくださる復活のイエス・キリストのゆえに、彼らは新たに神を証する証人として遣わされているのです。

 ある人は、主の昇天とは、宣教の担い手がイエスさまから教会に委ねられた、そのような橋渡しのときを言うのだと言っていました。これからは、教会が神を証する働きを担うのです。その教会とはこの建物のことではありません。ここに集まる私たち一人ひとりのことです。私たちが証人になるのです。イエス・キリストの十字架の苦難と復活の御業を証し、罪の赦しを宣言なさる神を証する、私たちがその働きを担うのです。

 今日の昇天主日を準備しながら私はとても大切な言葉に出会いました。

 「あと何年生きられるかを考えるのではなく、あと何年人たちと良い物を分かち合えるかを考えなさい」という言葉です。長寿の時代に私たちは生かされていますが、この言葉は私を目覚めさせてくれました。時間の長さを計算する習慣の中に生きていた私を新たな道に招く言葉でした。「良い物」とは、言うまでもなく福音です。死者の中からイエス・キリストを復活させられた神、罪の赦しを宣言なさる神を証すること。その神が私とあなたの弱さの中におられ、自由に自分らしく生きる道へ招いてくださっていることを宣言する、それが福音、良い物なのです。「あと何人の人たちとその良い物を分かち合えるか」。どんどん心を開いて、私たちの食卓に大勢の人をお招きしましょう。

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