いけにえではなく悔いる心

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いけにえではなく悔いる心

(ホセア5:15~6:6)

私は絵を描くのがあまり上手ではありませんが、小さい頃、小学校の宿題でよく家とお庭の風景を描いたことを覚えています。夏休みが終わると、子どもたちが提出する絵はどれも似かよっていました。というのは、みんなで集まって宿題をしていたのです。どの絵も大抵は、家があって、脇には大きな木があり、庭の隅に犬小屋があったのでした。

先週、韓国からお客がここに来られて、彼女たちにこの辺の地図を渡したのですが、そこにこの教会の絵を描きました。上の十字架から始まって屋根と横の壁を描いて、最後に建物の下を描く順で描きました。そして気づきました。家を建てるときに屋根から建てることはできない。まず基礎をしっかり造り、その上に柱を立て、梁を置いて、屋根を作るのが順番だと思います。どんなに有能な建築家でも、屋根から家を建てることはできません。絵を描くのと家を建てるのは違うことかもしれませんが、皆さんは家の絵を描くとき、どこから描きますか。

さて、先週福音書から説教をしてしまったので、今日は旧約聖書のホセア書から福音を分かち合いたいと思います。

ホセアが預言者として活動していた時期は、イザヤより少し前のウジヤ王の時代でした。紀元前785年~725年にわたって、60年も預言者として活動した人です。そして、ホセア書が書かれたのは、紀元前755年~725年の間と言われています。

ホセアの預言は、神は愛の神であることを思い出すようにと、イスラエルの民を励ましています。ご自分の民をどんなときも変わることなく愛される誠実な神さまの姿が、その愛の大きさが記されています。何度も他の神々を拝むようになってしまうイスラエルの民にむけて、変わることのない神さまの愛が、不誠実な妻を愛し続ける夫の姿を通して語られています。

しかし神さまは、ご自分から離れていく民をすんなりと赦し愛されたのではなく、苦悩しておられる、その姿がホセアの預言の中によく表されています。

本日選ばれている5章15節にはこう記されています。「私は行って、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めてわが顔を尋ね求め 苦境にあって私を探し求めるときまで」と。この神さまのお姿は、とても切実です。ご自分の場所に戻ろうと言われる神さまは、いったいどこに出かけておられたのでしょうか。待っても、待っても帰ってこない、愛する者の後を追って、どこまでも出かけて探し求めておられるその姿。神さまは、ご自分を裏切って他の神々を追いかけて行く民の姿にあきれ果てたりなさらなかったのでしょうか。

私たちは、この神さまの前に立って、聞いてみたらいいと思うのです。「神さま、この私のためにどこまで出かけておられたのでしょうか」と。そのときに、深い苦悩の中から神さまは答えてくださることでしょう。寂しくて、独りぼっちで、耐えられず、居ても立っても居られない思いで、あなたのそばで静かについていたとおっしゃる神さまに出会うのではないでしょうか。

私たちが帰ってきてもしご自分がすぐ迎えることができなかったら困ると思って神さまは、「自分の場所に戻っていよう」とご姿勢を改める様子です。神さまのご自分の居場所、そこは愛するという場所。そこだけが神様の居場所。「彼らが苦しみながら私を訪ねてくるかもしれないから」と、愛する者をどこまでも愛し続けようとする神の孤独な姿がここにあります。

神の孤独。孤独な神。

私たちはその孤独な神の姿を、十字架の道を歩まれるイエスさまに見ることができます。イエスさまの周りには大勢の群衆がついていました。それは、ファリサイ派や律法学者たちが、イエスさまを訴えたくても、周りにいる群衆を恐れるほどでした。それほど、大勢の弟子の群れがガリラヤからエルサレムまで、イエスさまについてきていたのです。

しかし、イエスさまが十字架刑に処せられてゆくときには、その大勢の人は行方も知らず、誰一人御そばに残りませんでした。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してあなたにつまずきません」(マタイ26:33)と誓ったペトロも、イエスの仲間の一人と言われたときには、「そんな人は知らない」と、イエスの仲間であることを否認したのです。イエスが尋問を受けて苦しみの中にいた最も大変だったとき、みな遠く離れていったのです。十字架の上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、神さまからも見捨てられたような、徹底した孤独の中で、イエスさまは一人死と闘ったのです。孤独な神がここにおられます。

しかし、そこに戻っていよう、と。ご自分の苦しみにだけでなく、ご自分を見捨てて逃げてしまったその人々の重荷をも担って、愛する場所に戻って、一人でその重荷を担っていようとなさる神。つまり、ご自分の居場所を人の弱さや暗闇としてくださり、そこへ帰って来てくださった十字架の神、そのイエスさまに今日私たちは出会っています。

どのようにして私たちはこの神の姿を、人々にわかり易く現すことができるのでしょうか。

イエスさまは、当時、罪人や徴税人や娼婦など、神の救いから遠い人たちと言われ、社会の中で最も弱い立場に追いやられていた人たちの群れと一緒におられました。本日の福音書の中の光景がそうです。マタイの家には、徴税人や罪びとたちが大勢集まり、イエスさまを囲んで食事をしています。教会から「救われない人たち」と言われ、社会からは「底辺に生きる者」というレッテルが張られた人たちです。どんなに頑張っても認められず、死んでも神の国に入ることはできないと言われ、暗闇の中に追いやられた人の群れの中にイエスさまはおられます。

先週の水曜日に松島さんを訪ねて海老名の方へ行ってきました。車で松島さんがおられる施設へ行く間に、エホバの証人の本部の建物の前を通りました。広大な敷地に大きな建物がいくつも建てられていて、驚きました。そして、愛子さんによると、日曜日になると大勢の人が集まる、その中には若者が大勢いるということでした。きっと、頭のいい人たちが集まっているのでしょう。

オウム真理教に集まった人たちもそうでしたし、創価学会や統一教会に集まる人たちもそうです。また、1970年代に韓国でいろいろの事件を起こしていた新興宗教に集まっていた若者のほとんどは、名門大学の学生たちでした。

どうしてかれらは伝統的なキリストの教会ではなく、新興宗教の中に足を踏み入れるのでしょうか。現在も多くの若者たちが、救いの確信を求めてさ迷っているのに、教会に足を運ぼうとしません。どうしてなのでしょうか。教会が若者たちに耳を傾けようとしていないからではないでしょうか。キリスト教の教会が自己正当化に留まり、排他的な合理主義、資本主義の中に根を下ろしている姿を、若者たちは見抜いているのです。

つまりそれは、宗教が神の存在を表すために大切にすべき純粋さを失っているということです。他の言葉で言うなら、愛することにとても乏しい、人のありのままを受け入れるよりは、条件付きの受け入れ方をしている、それが今の教会の現実であるということです。

その教会の在り方は、今日、マタイの家で、「なぜ、あなた方の先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」と質問をしているファリサイ派の人々の姿にほかなりません。罪びとたちと一緒に食卓を囲んでおられるイエスさまのことが理解できず、「なぜ?」と問いかけている人たち、彼らは、宗教界の中心にいるファリサイ派の人たちです。「なぜ、あなた方の先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか」という問いかけは、私たちは排他的であることを表しています。そして、2千年が経った今も、多くの伝統的教会はこのファリサイ派の姿から抜け出られないでいます。

それは、私が描くように、家を屋根から描こうとするからなのだと思うのです。つまり、知識を重んじ、教養や道徳を順守し、社会的地位や名誉的なものを教会にそのまま持ち込むような、頭でっかちな教会になってしまったということです。イエス・キリストが見せてくださった十字架の神の姿を、具体的な行いの中において現すことのできない教会になってしまいました。

そのファリサイ派に向けてイエスさまは「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」というホセアの預言の言葉を述べられました。
慈しみ深い神さまの愛の中には、何の隔てもありません。その愛の神さまを、私たちの教会は、行いを通して伝えましょう。

 

ユーチューブから説教が聞けます

https://youtu.be/-u7W6nkcArY