心を一つにし思いを一つにする

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1コリント1:18~31、マタイ4:12~23、

心を一つにし 思いを一つにする

鵠沼教会が宣教を開始し、今年で74年目を迎えます。すっかり長寿になった日本人の寿命を思うと、74歳というのはまだまだこれからともいえましょう。しかし、74歳というのは、ひととおり人生を経験し、苦しみや悲しみを知り、生きることとはどういうことなのか、そこから与えられる喜びとはどういうものなのかを理解している年齢とも言えます。教会の歩みも同じです。さまざまな人が出入りし、思わぬ出来事も起き、悲しいことも嬉しいこともあり、苦しい時期もありました。しかし、そういうただ中で教会は、確かに成長し、今も成長し続けています。キリストの体である教会は、どんなに歳をとっても成長が止まることはありません。そしてキリスト者である私たち自身もそうです。どんなに歳を取っても成長し続きます。

今日の第二日課の1コリントの信徒への手紙には、私たちの教会の去年の宣教指針の聖句が記されています。「心を一つにし 思いを一つにする」(10節)。
この聖句が、去年の私たちの教会の歩みを導きました。このみ言葉から、私たちはどのような影響を受け、教会はどう導かれたのでしょうか。
ある方は、「心を一つにし 思いを一つにする」のは個人の自由を奪うような言葉に聞こえると言っておられました。本当にそうなのでしょうか。

使徒パウロは、この言葉の前にこう述べます。「どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず・・・」と。

当時、コリントの教会は、自己主張の強い人たちがいて、派閥争いが起き、分裂寸前の状況にありました。コリントの教会には、とても優れた賜物をもっている人が多くいたようです。ある人々は霊的賜物に対して過度な興味を持つようになり(14章)、その人々が霊的な賜物が与えられていない人を軽蔑するようなこともありました(12章)。そのようなとき、つまり本来は共同体の恵みとして与えられている賜物が、個人の誇りを表すものとなるとき、そこから分裂が生じます。

その状況をパウロはクレネの家の人から伝え聞いて、このように述べます。

あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』、『私はアポロに』、『私はケファに』、『私はキリストに』などと言いあっているとのことです。キリストはいくつにも分けられてしまったのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたが洗礼を受けたのはパウロの名によるのでしょうか・・・」(12~13)。

ここに出てくるアポロという人は、コリントの教会で強い影響力を持った人のようです。ケファはペトロのことです。古代も現代も、教会の宣教の営みには、リーダーシップが必要で、リーダーシップも一つの賜物です。しかし大切なことは、そのリーダーが、その賜物を個人的なものとして用いるか、共同体のものとして用いるかということなのです。それによって群れの様子はガラッと変わります。

リーダーシップだけでなく、どんな賜物でも、それを個人の利益のために用いようとするとき、その賜物は、やがては衰退していきます。しかし、それを共同体の利益のために、つまり人に役立つものとして用いようとするときに、その賜物はどれだけキリストの共同体を豊かにすることでしょう。

パウロはこのように述べます。

恵みの賜物にはいろいろありますが、それを与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(1コリント12:4~7)。

一つの霊からそれぞれに賜物が与えられて、それは全体の益となるためなのだと。そしてこの後にパウロは、「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です」(12:12)と述べ、私たちひとり一人はキリストの体の一部分であると、とても分かりやすい喩えを用いて述べます。「しかし実際は多くの部分があっても、体は一つなのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:20~22)と。

ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」というこの言葉は、教会の宣教の営みの中でとても大切なことです。私たちの体は弱いところを中心に動きます。どこかが怪我をすれば、体全体はそれをカバーしようとしてすべての力をそこに集中させます。体の中の癒す力をすべて動員するのです。

教会も同じです。教会の中の弱い人を中心にして宣教活動が進められるときに、キリストの体である教会は健康であると言えます。しかし、強い人、つまり群れを自分の周りに集めようとする権力志向の人が中心になるときに、教会はこの世の人の集まりになってしまうのです。

ですから、教会のリーダーとなって中心的な働きを担っている人は、教会の中で弱い人を中心にした教会の在り方を大切にして働かなければなりません。キリストはこのように言われたのです。「この最も小さな一人にしたのは私にしてくれたことである」(マタイ25:40)と。ご自分の姿を小さき者の一人に置いておられます。

私たちの教会はどうでしょうか。私は自問します。声の大きな人が中心になっていないだろうか。長い間守ってきた私の伝統というものが、異なる人を排除していないだろうか。弱さこそ強さを支える力であるという逆説を、私はどのように理解しているのだろうか。皆様は、いかがでしょうか。

18日から始まった世界キリスト教一致祈祷週間、今日は5日目ですが、そこで「キリスト者の一致」というところでこのように述べられています。「キリスト教一致運動のおかげで、今日のキリスト者はそれぞれの伝統を超えて、聖歌、祈りの内省や洞察を分かち合っています。自分たちとは異なる共同体のキリスト者の、しばしば苦難に耐えてきた、信仰と愛に満ちた弟子の姿から生まれた賜物として、私たちは互いにそれらを受け取り合うのです。これらの共有されたものは、大切にすべき豊かさであり、わたしたちが共有しているキリスト教信仰のあかしです」と。

1コリントの言葉と同じことがここでも述べられています。

皆、背景が異なり、長い間守ってきた伝統も異なります。しかし、それぞれの伝統を超えるのだと。長い間歌ってきた私たちの讃美歌を、他の教派の方々と共に歌い、共に祈り、そして祈りを通して得たものを分かち合う。一致するということは、決して自分や相手の伝統を変えなければならないとか、自分や相手の異なる背景を排除するというのではありません。互いが賜物や信仰の経験を尊重して大切にするということなのです。

本日の福音書は「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って宣べ伝え始められた」と記して、イエスさまの宣教開始を伝えています。

ここで言う「その時」とは、パプテスマのヨハネが捕らえられた時のことです。そういう時期に、ヨハネが宣言した「悔い改めよ。天の国は近づいた」という悔い改めの福音をもって宣教を開始することは、イエスさまにとっても危険なことでした。しかし、イエスさまは、ヨハネが捕らえられた知らせを聞いて立ち上がったのでした。

イエスさまがヨハネから洗礼を受けられた時の言葉の中に、このイエスさまの思いを理解する言葉があります。イエスさまがヨルダン川へ近づいてきたとき、ヨハネが「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」と聞くとイエスさまは、「今はそうさせてほしい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と述べて洗礼を受けられました(マタイ3:14‐15)。

すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいこと」と述べ、それを今行おうとなさったのです。自分に向けられた政治的迫害に対応するより、ヨハネを通して準備された神の国の福音の道を生きることをイエスさまは選び取られたのでした。それは、光が当たらず、ずっと暗闇の中にいる私たちのためにです。福音を宣べ伝えるべき教会が、教派間の違いを主張するための争いや神学的見解の自己主張、派閥争いに小さきものが巻き込まれ、どんどん暗闇の中に追いやられていきます。そのような小さき者が、光の世界に迎え入れられるために、教会はキリストにあって一致し、心と思いを一つにして、折が良くても悪くても福音を宣べ伝えるために励むのです。私たちの教会がこれからも果たされた使命を果たして行く、キリストの体としての働きを全うすることができますように祈ります。