神の汚れた手

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イザヤ42:1~9、マタイ3:13~17

神の汚れた手

今年は顕現主日がなく、主の命名を記念する主日の後にすぐ主の洗礼を記念する主日が来ました。ですので、東方の博士たちの物語は、クリスマス燭火礼拝の中で聞きました。東方教会に連なるウクライナの人々に思いを馳せ、今年はこの戦争が終わるようにと祈りましょう。まさに闇の深い東方、東の方から博士たちは救い主を求めてはるばるとベツレヘムまで来たのです。博士たちを通して、私たちの異邦人の世界にも救い主の福音がもたらされたのです。

そうなのです。日本には最初フランシスコ・ザビエルを通してキリスト教が伝えられ、その後、いろいろの教派が入ってきました。私たちのルーテル教団は、戦後アメリカのミズーリの宣教師たちによって伝道され、鵠沼教会は今年で74年目を迎えます。そういうルートを通して私たちがここにいる、それは事実です。

しかし、それよりもはるか昔に、東方の博士たちがベツレヘムで救い主に出会い、神の救いが私たちの異邦の世界へまで広がりました。私たちの救い主との出会いは、この博士たちとイエス・キリストの出会いの中から生まれたものです。それが恵みの神秘なのです。その恵みの神秘の中で、私たちはキリストの洗礼に預かり、キリストの体を生きるという、新しい生き方へと導かれたのです。

今日は主の洗礼日で、イエスさまが洗礼を受けられたことを記念しています。同時に私たちも、自分たちの洗礼の時を思い起こすときです。キリストに出会ったばかりのときの、初心に帰るときです。イエスさまとの出会いがただただ嬉しくて、一生涯この方についていこうという喜びの中で洗礼を受けました。皆さんの中には、いえいえ、私にはそれほどわくわくした思いはなく、親の意志で洗礼を受けたとか、牧師に勧められて受けたとか、いろいろおっしゃりたい方もおられると思います。さらには、まだ洗礼を受けていない方もおられるでしょう。

先ほど拝読していただいたイザヤ書42章6節には、このように記されています。

主である私は義をもってあなたを呼び、あなたの手を取り、あなたを守り、あなたを民の契約とし、諸国民の光とした」と。

神さまが、ご自分の義をもって私たちひとり一人の名を呼んで手を取って守ってくださり、私たちを民の契約とし、諸国民の光としてくださったとおっしゃるのです。なぜなら、その義のゆえに。ここで「義」というのは、神さまの恵みのことです。神さまの一方的な恵みによって、私たちは神さまの救いに預かったのです。神さまの恵みの神秘の中に私たちは呼ばれ、守られ、諸国の民の光とされました。

私はこのイザヤ書の一節を黙想しているうちに、神さまが助産婦のように見えて不思議でした。こんな年寄りなのに、私はまだ生まれていなく、母の子宮の中の暗い所にいる。その私に、神さまが手を差し伸べて、「出ておいで、大丈夫、安心して」と優しく話しかけては、私の手を取って暗闇からご自分のところに引き寄せてくださいました。神さまは、ご自分の愛の衣の中に私を包んでくださり、この世の冷たい空気から守ってくださる、暖かく力強い助産婦の姿をしておられたのです。

つまり、暗闇の中にいて、光の方に出ていくことを恐れ、震えている私の手を神さまが取ってくださったのです。神さまは私を愛して、私の見えない目を開き、今まで見たことのない光の世界を見せて、神秘の中に隠れていた神の国の数々の恵みの宝を見せてくださったのでした。

それにもかかわらず、私は、またすぐ暗闇の中に閉じ込み、お金や仕事や自分のエゴを神のようにして生きてしまいます。時には人の陰口を言い、人を評価するような言葉を口にして自慢したり、弱い立場に置かれた人のことをまったく配慮しない生き方をしたりしてしまうのです。この体が、神さまの存在を疑うような闇の世界に慣れてしまったのです。諸国民の光となって生きるどころか、神さまを悩ませている自分がいます。その私を神さまは何度もその暗闇から救おうと手を取って導いてくださいました。私の汚れを神さまが負ってくださいました。私が新しく生まれ変わって生きるために、神さまは私が犯した数知れない過ちのすべてを、背負ってくださったのです。

最近、統一教会の問題を通して多くの新興宗教の在り方も問われています。数日前の新聞には、新興宗教が足かせになっている人のことが大きく載っていました。宗教に熱心であるのに両親の仲は悪く、子どもには「~をしなければ罰が当たる」と教える。「幸せを求めて信仰するはずなのに、うちは全然幸せじゃない」と幼心に感じていた彼女は、20歳になって、足かせになっていた宗教から自由を求めてイスラム教に改宗したという記事でした。イスラム教は顔を隠すためのヒジャブを身に着けるけれども、改宗してどんなに幸せなのかわからないと言っていました。

そうなのだと思うのです。宗教は足かせになってはならない。むしろそれは自由への道です。この世の価値観の中で苦しみ、自分にますますプレッシャーをかけて生きる世界を後にして、イエス・キリストの洗礼に預かること、キリスト者となっていくということは、自由になるためなのです。幸せになるためです。それは快楽的な幸せではなく、心の中に深い平安を築き上げるということ。深い平安、そこが神の国だからです。イエス・キリストの洗礼に預かるということは、こころの中に広がる神の国の幸い、平安を生きるためなのです。ですから、神の国は死んでから行く所ではなく、今、ここで生きるもの。今、ここで神の国を生きた人が死んだ後も神の国へ行くのです。

人の心に道が作られます。その道がどんな道かは、その人自身がそれをどう作るかに寄ります。いつも不平不満を言い、怒ってばかりいたり、疑ったり、計算高い人の心の道は、そう言う道になります。茨の道です。逆に、人を褒め、常に感謝し、喜びを素直に表す人の心の道は、平和の道です。神の国に向かって真っすぐ伸びる道です。私たちは、自分が作った道を歩きます。何度も歩いて慣れてしまうと、すぐその道に足を運びます。歩いたことのない道にはなかなか足を運びません。神の国に入りたいと願っても、自分の足がその反対に行ってしまうのです。

ですから、洗礼とは、死んで天国に行くために受けるものではなく、今、ここで自由になるために、平安で幸いな道を歩くために受けるものです。そしてその道は光を放ちます。その人の周りには、その光の恵みに預かろうとして人が集まって来ます。恵みの神秘はこのようにして周りを照らし、人々を幸せにします。

今、多くの人が、データ化された世界に生きることに疲れています。働いて成果を上げても、求められる成果には限りがなく、休めません。がんばってトップに立ったとしても、そこはいつ崩れるかわからない不安な場所です。孤独な場所なのです。そこでは休めません。闇の世界です。その世界に生きる人が休めるようにするのが、宗教界が担う働きです。その働きは、牧師とか、お坊さんとかだけが担うのではなく、洗礼を受けた私たちひとり一人に委ねられています。

イエスさまはそのために洗礼を受けられました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)とおっしゃって、暗闇の中にいる人々をご自分のもとに呼び寄せてくださいました。あなたの重荷を私のところで降ろして、ゆっくり休みなさい、足かせを外して自由になりなさい、要らない服を脱ぎ捨てて本当の自分を生きなさい、自分の道を歩きなさいと、暗闇の中で凍えている人をご自分の方へ引き寄せてくださったのです。そして今は、私たちを通してイエスさまは疲れた人々をご自分のところに呼び寄せておられます。そのイエスさまの手と足となってイエスさまの光を放つ働きを、イエスさまの洗礼に預かった私たちが担うのです。いやいやではなく、喜んで、感謝のうちに、私の体を、心を、時間を、神の国への道づくりのためにささげるのです。人の必要を満たしてこそ自分が満たされるという恵みの神秘を生きる、幸いな一年を歩んでいきましょう。

希望の神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。