目を覚ましていなさい

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目を覚ましていなさい

マタイによる福音書24章36~44節

新しい季節が訪れました。アドベントです。アドベントクランツの蠟燭が一本灯されました。暗い道を照らす光です。救い主は暗い道をたどって来られます。救い主を待つ者の果たすべき役割は、その道を照らすことです。私たちの渇き果てた暗闇の道を通って来られる救い主を迎えるために、慎み深く身を整え、小さくても心にともし火を灯して備えたいと思います。

さて、アドベント第1主日。私たちに与えられている福音は、目を覚ましていなさい、盗人が夜のいつ頃やってくるか知らないように、人の子も思いがけないときに来るから、あなたがたは目を覚まして用意していなさいというのです。具体的に、どのように振る舞うのが目を覚ましていることなのでしょうか。どうして救い主は、私たちが分かるような形で来ないで、盗人のように突然訪れるというのでしょうか。

先週は湯河原の温泉でオリーブの会の修養会がありました。昨年に続いて今年も楽しく有意義なときを過ごすことができました。そこではたくさんのことが話されましたが、その中で一つ、教会の近所の高齢の方々、特に一人暮らしの方々に福音を分かち合うことが話題になりました。一緒に食事をして、おしゃべりができる場を教会が提供できたらいいねという話です。コロナが落ち着いたら、ぜひ実現したいと思います。

もてなすこと、ホスピタリティ、分かち合うことは教会の宣教の核心と言えます。精神的にも物理的にも貧しい人、一人では生きることが難しい人々と自分の持ちものを分かち合うことは、神さまが最も望んでおられる聖なる働きです。

もてなす働きを担うためには、先ず私たち自身が大切にもてなされていることに気づかなければなりません。今日も、新しい暦の始まりに、私たちは御前に招かれました。それは、とても良いものを分かち合って、もてなしてくださる神さまのもてなしをいただくためです。一年間ご苦労さま!大変な道のりを良く歩いてこられました。病んでいた時、仕事や人との関係で悩んでいた時、家族のことで疲れたとき、自分の老いる体を受け止められず、苛立ち、悲しみ、不安と恐れの中で嘆いていたとき、私はそのあなたとずっと一緒だった。あなたの痛みや苦しみ、不安や恐れ、苛立ちの気持ちの中に立って、そのあなたを受け止め、暗いトンネルを一緒に歩いてきたと、神さまは告げておられます。

そして、さあ、新しい始まりを生きようと励まして新しい力を与えてくださいます。それは、今日だけではありません。主日だけではありません。毎日毎日、私たちは神さまに励まされ、新しい力をいただいて遣わされています。私たちは、祝福され、愛されている群れなのです。

さらに神さまは、お造りになった様々なものを通して、私たちと一緒におられます。最近ある近所の方と知り合いになりました。85歳の方で、早速私をご自宅に招いてくださり、「あなたは鵠沼に来てまだ三年も経っていないから、まだ鵠沼の良さが分からないでしょう。鵠沼はねとてもいいところなのだよ!」とおっしゃって、私にご自分が取られた鵠沼海岸の素敵な映像を見せてくださいました。日が沈む頃の美しい風景、真っ昼間の海の動き、海の上を行き交う雄大な雲の流れ。それにふさわしい歌をつけて編集した映像を何篇も見せてくださいました。この方は人間が自然界との密接な調和の中に存在することを良く知っておられ、その恵みの中をそのまま生きておられる方だと思いました。つまり、神の臨在のただ中を生きておられるのです。

私はまだすべてをしりませんが、鵠沼はとてもいいところです。疲れを癒す場所がいたるところにあります。

しかし、気をつけなければならないことは、どんなにいいところでも、それに慣れてしまうことです。慣れてしまうことはとても危険です。慣れてしまうと、関心が薄れ、マンネリ化し、ついには飽きてしまったりもします。自然だけではなく、物や仕事、自転車や車の運転、そして大切な人でも、長い間一緒に過ごして慣れてくると、あって当たり前、当然だという思いになり、相手が思うように動いてくれなければ不平不満が生じます。

自分自身との関係もそうかもしれません。今の私が、いつまでもこのままの私であると信じて、当たり前のように生きてしまいます。しかし、健康を失ってみて初めて自分が恵まれた体をいただいていたことに気づきます。歳をとった今になって、あの若かったときにもう少し自分を大切に生きればよかったと反省するのです。

今の私、そして今自分と一緒にいる人や自然界は、実は、この私をもてなすために存在している、神さまはそれらを通して私と一緒におられる、そのことにいつも気づくということが大切で、目を覚ましている状態というのでしょう。その気づきを通して初めて私たちは、人をもてなし、自然をもてなすという福音の分かち合いの道を具体的に歩むのではないでしょうか。

本日の福音書の中には、旧約聖書のノアの時代の人々のことが記されていました。洪水の前の人々は、食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、それらに捕らわれていて、洪水が起きることにも気づかなかったと。

食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりということは、特別なことではなく、日常のことです。今日という一日が終われば明日という新しい一日が巡ってくるように、その一日の中で行われる、平凡なことです。しかし、人々は、その平凡な日常をあって当たり前と過ごしていたということ。つまり、その日常をただ自分のためにだけ生きていた、隣人の貧しさや孤独、お腹を空かしていて、明日の命の保障がない多くの人への関心はなく、自分のお腹が満たされることで満足した。自然界が叫びをあげていることなど、他人事のように過ごしていたということです。

もてなしの欠如、ホスピタリティの欠如です。聖書は、ホスピタリティの欠如を暴きます。旧約聖書の創世記19章には、ソドムとゴモラの滅亡の話が記されています。アブラハムの甥のロトはソドムに住んでいましたが、そこの人々の罪悪があまりにも甚だしく、神さまはソドムとゴモラを滅亡すると決めて、み使いを遣わします。そのとき、ロトはそのみ使いたちを自分の家に迎え入れてもてなします。しかし、ソドムの人たちはロトの家にやってきては、家に入った連中を外へ出しなさい、その連中を知りたいのだとロトを責めます。

教会の多くの人々は長い間、ソドムとゴモラの人々は同性愛者だと解釈し、創世記19章を、同性愛者を断罪する章として用いてきました。しかし、聖書のどこを見ても、そのような断罪はありません。エゼキエル16:49~50、イザヤ1:10、17では、そうではないことをはっきりと述べています。

妹ソドムの過ちはこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安閑としていながら、苦しむ者や貧しい者を助けなかった。彼女たちは高ぶり、私の前で忌むべきことを行った。そこで私は、あなたが見たとおり、彼女たちを取り除いた」(エゼキエル16:49~50)。

ソドムの支配者たちよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、私たちの神の教えに耳を傾けよ。あなたがたのいけにえが多くても、それが私にとって何なのか。私は、雄羊の焼き尽くすいけにえと肥えた家畜の脂肪に飽きた。・・・善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられたものを救い、孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ」(イザヤ1:10、17)。

大預言者たちがこのように記しているのに、人は誤った解釈をして、弱い立場にいる人を断罪する。与えられたものを自分のためにだけ用いるときに、そのような誤った解釈をしてしまいます。

少し余談ではありますが、大洪水が起きてノアの箱舟にはノアの家族と、あらゆる家畜や命あるものがペアで入れられました。そのときに善もやってきました。ところが、善もペアで入らなければならなかったので悪をつれて入りました。

これはタルムードの中に記された話ですが、しかし余談ではありません。私たちの中には善と悪が共存しています。弱さや貧しいものを大切にしてもてなそうとする善と、弱いものを取り除こうとする悪が常にぶつかり合い、闘います。

私の中の弱さや貧しさ、そして他者の中の弱さや貧しさと私たちはどう向かい合うのでしょうか。

救い主は。最も貧しくて暗い、人の闇のただ中に宿り、私たちが想像すらできない場で産声をあげます。光は闇をご自分の宿る場としたのです。今日、私たちの暗闇の中にその光が灯されました。私たちは神さまから大いなるもてなしをいただいたのです。その光を分かち合いましょう。分かち合うことで光はどんどん広がります。光の中でこそ、人は目を覚ましていることができます。皆さまのアドベントの新しい始まりが、光で照らされた所を歩む、目を覚ましている日々でありますように祈ります。