しかし、立ち上がって

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しかし、立ち上がって

ルカによる福音書19:1-10

                                                         加部 佳治(10月30日(日)の説教)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにありますように。アーメン。
本日の箇所は、イエスが徴税人を招き入れる話ですが、ルカ福音書では、これは 2 度目の登場になります。1 回目は 5 章 27 節の「レビを弟子にする」ところです。「レビと言う徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」とあります。そしてレビは大勢の友人を招いて宴会をし、イエスをもてなしたのですが、それをファリサイ派の人たちが非難します。「なぜ、罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」と。

それに対するイエスの答えは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ご存知のように、これはマタイ福音書ではこの徴税人はマタイと言う名で書かれています。マタイ福音書では、山上の説教があって、その後イエスの癒しがいくつも行われ、その後に、この徴税人であるマタイを弟子にする話が置かれていますが、ルカ福音書では、シモン・ペトロなど、人の漁師を弟子にした直ぐ後に、このレビの話しを置いているので、何となく印象が薄いし、レビと言う徴税人は「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」とあるだけで、その直前の漁師のシモン・ペトロをイエスが招くことに対して、ペトロが一晩中漁をしたが魚が取れなかったが、「しかし、お言葉ですから・・」と言った、あのような、イエスの招きに対するペトロのこころの動き、そういうものがレビの場合は、何も描かれていないので、余計に印象が薄いと思
います。ルカ福音書にしてはちょっと淡白な記述の仕方だと思います。それ故なのか、ルカは、こんどはザアカイと言う名の徴税人をイエスが招くシーンとして、再び描いています。

さて、先週のルカ福音書 18 章 9 節でも「徴税人」が登場しました。この徴税人は、自分が罪人であることをきちんと受け止め、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、胸を打ちながら祈ります。それゆえこの徴税人はイエスから義とされたと、あります。
しかし、今日の徴税人ザアカイは、どうでしょうか。彼はちょっと違うようです。エルサレムを目指すイエスの一行は、いよいよエリコに入ります。そこにザアカイという徴税人が居ます。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」「イエスがどんな人か見ようとしたが、見ることができなかったので、走って先回りしいちじく桑の木に登った」とあります。イエスに対してとても興味があった。イエスのことを見たい、知りたい、イエスが数々の癒しを行ってきたことを、ザアカイも当然知っていて、そのイエスを一目見たいと思ったのでしょう。

でも、背が低かったので、群衆に遮られてしまったザアカイは、いちじく桑の木に登った。普通だったら、背が低くても群衆になんとか分け入って、みんなと一緒にワイワイとイエスの一行を見ようとするのだと思いますが、そうではなく、木の上から見ようとした。
ザアカイは、群衆に分け入って入れない、群衆からは疎外されている状況がうかがわれます。彼は、世間的には、「罪人」だからです。周囲の目、貼られたレッテル、「徴税人の頭、金持ち」だけれども、ザアカイは、群衆の中では孤立していた、孤独だったのだろうと思います。そして同時に、彼自身が、その「罪人」というレッテルに甘んじている、というか、捕らわれているところがあったのかもしれない、と思います。世間から「罪人」と言われても、先週の徴税人のように、神様の前で自らの罪を認めて、胸を強く打って祈るようなことはしません。自分が罪人であることは重々承知していますが、その一方で「徴税人の頭で金持ち」であることが、彼の自負のようなもの、ある意味ザアカイのアイデンティティ、存在の拠り所であり、だから、いちじく桑の木の上から、彼は群衆を見下ろす、というか見下していた。 木の上で、自分の方が「上に居る」のだと、思いながら。もしかしたら、イエスの一行に対しても、見下すというか、「どうせ罪人である自分とは世界が違う」と、距離を取っていたのかもしれないと思います。でも、木の上で、ザアカイは優越感に浸っていたのではなく、彼は、木の上で孤独だった、と思います。

そんなザアカイに、イエスは上を見上げて「急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」と言われたのです。ザアカイは「喜んでイエスを迎えた」とあります。まあ、喜んだのは言うまでも無いことでしょう。今や世間で大騒ぎしているスターのような預言者が、自分に声をかけてくれた。喜んだ、というかびっくりしたのではないかと思います。「どうせ罪人なんだから」と、自分からも距離を置いていたのに、そんな自分にイエスが声をかけてくれたのですから。大喜びでイエスを自宅に招いたとあります。先ほどの 5 章に登場したレビという徴税人が、イエスのために盛大な宴会の席を用意したのと同じように、ザアカイも徴税人の頭として、金持ちとして、大宴会の席を用意したことでしょう。これを見て、群衆は皆つぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」さて、徴税人は何故そんなに罪深いのか、註解書によれば、ローマの役人たちは、地域に割り当てた間接税、通行料、関税、手数料を徴収するため、地方の徴税元請けと契約を結んだ。これらの元請け、つまりザアカイのような「徴税人の頭」は、契約金の前払いを要求されたため、税金をより多く集めることによって利益を生み出そうと、下請けを使って集めさせた。このシステムは多分に悪用されたとあります。先にローマの役人に納めた金額以上に民衆から税金を取り立てれば、自分の儲けになるのですから当然です。ザアカイのみならず徴税人の頭のだれもが、そうしていたと思います。さらに、ローマ人のために税金を集めるユダヤ人は「神とイスラエルの同胞に対して」不誠実なやからと見なされ、支配者としてユダヤ人を苦しめたローマ人と共謀していることから、他のユダヤ人から憎まれた。とあります。金銭横領と言う道義的な不誠実を働くと同時に、民族的にも不誠実を働いている許せない
奴、つまり憎まれ者という訳です。だから当然、群衆はザアカイを「罪深い男」と呼びます。同時にザアカイもその「罪深さ」を認
識しながらも、今の立場を捨てられないでいた。徴税人の頭、金持ちとしての自分に捕らわれていた。執着していた、というか、今のザアカイからこの「徴税人の頭、金持ち」というレッテルをはがしたら何も残らない。ただの背の低い男になってしまう。群衆つまり周りの大勢の貧しい人たちの中に埋もれてしまう。だからザアカイにとって、この「罪深い男」というレッテルは、孤独を感じながらも実は彼の拠り所だったのではないかと、私は思ってしまいます。けれどもその一方で、ザアカイだって開き直っていたわけではなく、「罪深い男」というレッテルは出来れば返上したい、周囲の皆から疎外される「孤独」は返上したい。もしかしたら 5 章のレビのように、「何もかも捨てて立ち上がり」たい、そういうきっかけを、イエスに求めていたのかもしれないと思います。 もしかしたらあのイエスと言う人なら、そのきっかけを与えてくれるのではないかと。この「孤独」な自分を捨てるきっかけをくれるのではないか、自分から積極的には立ち上がれないけれど、自分の背中を押してくれる力が欲しかったのではないか。だから、ザアカイはイエスを見たかった。

さて、本日は宗教改革主日礼拝です。1517年10月31日にヴィッテンブルグ城教会の門に、ルターが 95 か条の提題を掲げたことがきっかけとなり、中世のキリスト教会に大きな変革をもたらしました。ルターは贖宥状の問題など、当時の中世の教会の問題点を掲げたことが、一般には良く知られていますが、ルーテル教会の皆さんは良くご存知のように、彼は罪深い自分を深く追求して、どうしても義とされない、救われない自分の現実、人間の限界を認識して苦悩する中で、「神の働きによって」義とされる、恵み深い神様の方から、自分を受け入れてくださる、救ってくださることに気づかされた、そのことがルターを立ち上がらせたのです。
中世の教会や当時の世の中で認識されていたような、善い行いの代償として救われるのではなく、先ず神様が恵みをくださる、そのことを信じることを通して救われる。「信じる」ことをルターは「イエス・キリストに対する信頼」と言う意味で使うことが多かった、「イエス・キリストにひたすら寄りすがる」「イエスキリストに、自分を丸投げする」という意味だと、「『キリスト者の自由』を読む」という本の中で、鈴木 浩先生が書かれています。「キリストはどうしようもない罪人である私のために、ご自身を十字架の上に丸投げされた、だから、わたしもそのキリストに自分を丸投げしよう」これがルターの信仰、つまり「信じる」ことだと言います。そしてそのように思い定めることは、ルター自身の決断ではありますが、それ

以上に、聖霊を通して自分に働きかけてくれる「神の働き」だとルターは気付いた、というのです。
自分の力ではなく、自分の中に働く聖霊、そしてイエス・キリストの力なのだと。自分が中心ではなく、自分の中に働かれるイエス・キリストが中心なのだと。そのように導かれたルターは、どうやっても自分を罪深いと意識してしまう自分から、自由になったのだと言います。そして自由になって初めて、彼は他者に仕える、他者に奉仕する喜びを得たと。「キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにも服する。」有名な『キリスト者の自由』の最初の命題です。

「喜んで、他者に仕える」
中世という、キリスト教的価値観がある種成熟した時代にあって、その成熟ゆえの閉塞感、息苦しさの中で、聖書に、イエス・キリストに向き合ったルターが得たこのことを、現代の私たちは、どのように捉えたら良いでしょうか?
遠い昔、500 年も前の、それもヨーロッパの人の出来事でしょうか?「キリスト者は自由だからこそ、喜んで他者に仕える」、「隣人を自分のように愛しなさい」と聖書にあります。本当に「隣人を自分のように愛せるか?」そう考えるたびに、私はいつも「たぶん出来ないだろうな」と思ってしまいます。真剣に考えれば考えるほど、自分には出来そうにありません。
現代社会ではとかく成果を求められます。結果で周りから評価されがちです。社会に出てからはもちろん、今の子どもたちは小さい時からそうやって生きています。もちろん目標を掲げて夢を追いかける。そのために努力して、そして成果をあげる。このことは尊いし、素晴らしいことです。けれども、成果、結果がすべてになってしまうと、それは違うと思います。現代社会にもここに閉塞感があるのだと思います。不登校の子供たちのことがニュースで報じられます。自ら命を絶つ若い人たちが多いことも。大人だってそうです。社会の中で格差が広がる、ますます分断が大きくなる現代社会。いつも周囲から成果を求められる。自分でもそれを続けるうちに、次第に人生の全てが目標を達成することだけにあって、それを追い求めることが、自分の存在意義になってしまうのではないか。自分が追い求める成果、そこに自分の存在意義を求めるようになってしまう。私自身、自分のことを振り返ってみると、会社では成果を挙げること、結果を出すことを当然求められますから、最近は本当に労働の喜びを見出せているか、むしろ成果、私の場合は
良い建築を設計して賞を受けるとかメディアに取り上げられ注目されるとか、評価されることにのみ捉われていて、建築を設計することの楽しさ、若いころに感じたようなわくわく感を忘れてしまっている。ボランティアでやっている歴史的な建物の保存活用も、ボランティアですから奉仕なのに、それをやっていることで得られる周囲からの評価ばかり気になっていて、自ら喜んで奉仕するのとは、最近はちょっと違ってきているように感じる。さらに言えば、今日こうして信徒説教者としてここに立っていますが、み言葉を伝えることよりも、信徒説教者であることに自分の意義を求めていないか?
ふと、そんな風に感じることがあります。
ルターは「神様にとっての正しさ」神様にとっての義を追い求め、格闘した末に、「キリスト者は自由だからこそ、喜んで他者に仕える」と気づかされた。

一方、私はといえば、自分の成果、自分の存在意義に、ますます捉われている自分がここにいます。「喜んで他者に仕える」「隣人を自分のように愛する」私にとって、とても重いテーマです。ととてもハードルが高いです。だからといって、私はそのことでルターのように悩み苦しんだりはしていないのです。所詮は隣人を自分のようには愛せない自分、そんな自分の存在を認めてしまっているのです。それよりも世間体のような自分の存在意義に執着している。だから、聖書の言葉も、どこか「自分とは遠い別世界のこと」のように、距離を感じている。ルターの宗教改革も遠い昔の遠い国の人のことと、自分の方から線引きをしてしまっている。所詮自分には出来ないと、自分で線引きしている私がここにいます。

ザアカイが木の上で、イエスの一行と距離をおいていたように。群衆と距離を置いて「自分とは別の世界」と線引きしていたように。
でも、ザアカイは、きっかけを待っていました。徴税人ザアカイは、「孤独」だった。本当は「罪深い男」に甘んじている「孤独」の自分を返上したかった。自分にきかっけを与えて欲しかった。だからイエスを見たかった。走って木の上に上った。そのザアカイにイエスが声をかけたのです。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」所詮自分は、と距離を置いていたザアカイの中に、イエスが飛び込んで来たのです。「どうせ自分は罪人なのだから」と思っていたザアカイの中に、イエス・キリストの力が働きます。ルターが徹底的に悩んだ結果、自分の限界を知り、「到底自分には出来ない」けれども、自分の中にイエス・キリストが働いてくださって、イエスが自分を愛してくれることと同じように、自分も隣人を愛することができるようになる。そのことを知ったように、ザアカイも自分の中で
働くイエス・キリストの存在に気づかされたのです。もう、彼は「孤独」ではない。そのことに気づかされたのです。自分の中のイエス・キリストを実感したのです。この実感は、もしかしたらルターが信仰義認を実感したのと同じくらいの喜びだったのではないかと、勝手に想像してしまいます。「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。」この 8 節の「しかし、」は、「罪深い男のところに泊まった」と、周りの人たちに言われたことに対してではないです。心の中では「孤独」を返上したいと思っていたザアカイは、それでも「罪深い男」という存在に捉われている自分に、「しかし、」と言って「立ち上がった」のだと思います。自分の存在価値に拘っていた執着から
「立ち上がった」のです。「今日、救いがこの家を訪れた。」イエスのこの言葉は、まさにそのことを言っていると思います。ザアカイは、「罪人」の意識への捕らわれから自由となって、進んで他者へ使えること、奉仕すること、を宣言しました。借金を棒引きするとか、だました金を 4 倍にして返すことではなく、ザアカイがそれを自ら歓びに感じたこと、このことが「救い」なのだとイエス・キリストは言っているのです。

最後の 10 節でイエスは、「人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」と言います。ザアカイは、きっかけを待っていたのだが、そのザアカイを探していたのはイエスご自身なのだと言われます。今日こうして教会に来ている私たちも、イエス・キリストに探されているのだろうか?「どうせ罪深いのだから」と、どうせ「隣人を自分のようには愛せない」のだから、と自ら線引きして、イエスが聖書を通じて語りかけてくれている言葉と距離を置いてしまっている私、そんな私にさえ、実はイエス・キリストが探して、「急いで降りて来なさい」と呼びかけているのではないか、と思います。
その呼びかけ、私の中での働くイエス・キリストの呼びかけをしっかり受け止めて、私もザアカイのように、「しかし、」と言って立ち上がりたい、宗教改革主日のこの日にそう思います。お祈りします。望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、今日宗教改革主日の礼拝に集う私たちを、望みに溢れさせてくださるように。 アーメン