私の王

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(夕日に映った富士山 9月12日)

 

聖書は王制を否定する。
神さまは、王が民を自分の奴隷のように使うことを知っていた。
それで、イスラエルを神政国家にし、
神が預言者を通して治めることを求めておられたのだ。

しかし、人は王を求める。
それは、人の中に奴隷根性があるということなのかも。
使えられることを嫌いながら、しかしどこからで求めている・・・
その二面性をもって、私たちも神の民として生きている。
さて、今、私の王となって私を使おうとしているのは何?

 

 

人間の魂は神を待つ。
神以外には何ものも、
人間に神の目覚めを与えることはできない。
しかも、その神とは、
いと高きところにましまして、
人間を支配する主としての神ではない。
もし、そうであるならば、キリストの受肉は無用となる。
永遠、無限の神が、かげろうのような一人の人間の愛のために、
その存在のすべてを賭けたという、まったく理解を絶した事実こそが、
今日もまた、ひとりひとりの人間の魂のとびらをたたきつづけている。
(「祈り」奥村一郎)より

 

 

私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。
それを見て、自分たちのために王を求めたことが
主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい。
・・・
恐れなくてもよい。
あなたがたはこのような悪を行ったが、
これからは主から離れることなく心を尽くして主に仕えなさい。
役にも立たず救うこともできない空しいものを求めて離れてはならない。
それは空しいものだ。
主はその偉大な御名のゆえに、
ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。
(サムエル上13章)

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