鷲のような若さを

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ルカによる福音書13章10~17節

鷲のような若さを

人は一生涯の内に三回歳をとるそうです。一回目は三十四歳の時、二回目は六十歳の時、三回目は七十八歳のときです。私は来年の四月になると六十歳になるので、二回目の歳を取ることになります。今は百歳の時代。人の寿命が延びてきましたが、聖書は、人の寿命を、ノアの洪水の後に百二十歳と定めています。
モーセは百二十歳まで働いて、百二十歳に死にました。申命記にはこのように記されています。

私は今日、百二十歳で、もはや思うように出入りするができない。主は私に、『あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない』と言われた」(申31:2)。
そして、34章7節には、「モーセは死んだとき、百二十歳であったが、目はかすまず、気力もうせていなかった」と記されてあります。

モーセは死ぬ歳まで現役で働き、「目はかすまず、気力もうせてはいなかった」というのです。このことは私たちにとても大切なことを教えています。つまり、モーセの気力が失せていなかったということは、モーセの内面が常に成長し続けたということを表しているのです。

ヘルマン・ヘッセも、人は成熟することによって若くなるというのです。

私が尊敬する韓国のある哲学者がいます。名前は、キムヒョンソクさんで、クリスチャンです。長い間ヨンセ大学で哲学を教えて退職し、今百二歳で存命中の方です。インタービューの際に、彼は、自分の人生の中でのいちばん生きがいを感じた時期、つまり、人生の黄金期を七十歳から八十歳の間だったと述べていました。長生きの秘訣を聞かれると、欲を捨てること。人の悪口を言わない。さらには、私のために生きるのではなく、他のために生きること。私のために生きる時には何も残らないけれど、他のために生きるときに、自分の人生のモチベーションが高くなるというのです。

りんごの木に譬えるなら、りんごの木は幼いときには成長のために世話をしてもらうが、ある程度大きくなったら、それから死ぬときまで毎年実りをもたらす生き方をすると。実りをもって他と分かち合い、他に喜びを与えることで、他を愛し、共に生きる真の生き方になるのだと。それで、彼自身も実りを生み出すために、百二歳になった今も日常の一部は新しいものを生み出すように、執筆に取り掛かっておられます。

百二歳になっても、なお他者と分かち合うための新しいものを求めて前に進む姿。
それは、ただ生きるのではなく、どう生きるかを選び取るということです。
モーセは、神さまと人を繋げる働きに一生涯をささげました。家族もいましたし、自分のどうしようもない弱さをも抱えつつも、不平不満が止まないイスラエルの民らが神さまと結ばれた聖なる民となって、カナンの地へ入れるように、導き出す働きに専念しました。

死ぬ百二十歳までなお元気で、気力が失せることがなかったのは、モーセの内面が、常に主に向かって、新しいものを追及し、大変さの中でも新しい始まりを生きたことを証しています。自分を絶対視せずに常に自分を疑うこと、韓国のあの哲学者のように、他者と分かち合う道を歩むことを、信仰の先達たちは私たちに教えています。

今日の交読詩編は、詩編103篇でしたが、聖書協会共同訳聖書の言葉で読み直します。

主はあなたの過ちをすべて赦し あなたの病をすべて癒す方。
あなたの命を墓から贖い あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。
あなたの望みを良いもので満たす方。
こうしてあなたの若さが鷲のように新しくよみがえる

主が、私たちのすべての過ちを赦して、墓から贖い、慈しみと憐れみの冠をかぶらせ、「鷲のような若さをくださる」と言うのです。モーセとイスラエルの子らには既にその道を示された、今は、私たちにその道が示され、モーセのように、百二十歳になっても、死ぬ歳になっても、「鷲のような若さをくださる」と言うのです。つまり、罪が赦されて、主の慈しみと憐れみの中にいる人が受け継ぐ祝福がいかなるものかを、この詩編は私たちに証をしてくれています。

その証を私たちは声を上げて互いに読みあい、聞きました。もはやこの詩編は私たちの言葉になったのです。主の日、この礼拝の場は、そのように集まっている一人一人がみ言葉によって再生され、古いものが新しいものに変えられる場なのです。

今日、イエスさまは、同じく、安息日に、会堂で、腰の曲がった女性を癒してくださいました。腰が曲がるということは、老いることを意味します。または古いものを表します。その曲がった腰が真っ直ぐになったということは、彼女に若さが回復されたということです。詩編の言葉によれば、若さが鷲のように新しく甦った、という表現です。十八年間も、古い概念の中、墓のような暗闇を見つめ続け、死の世界に向かう道を生きていた一人の女性の中に、安息日に働かれるイエスさまの新しいいのちが活き活きと満たされたのでした。

ところが、イエスさまがなさったことは、ある人たちにとっては、安息日を犯したことになりました。安息日には働いてはならないのに、その規定を破り、人を癒す働きをしてしまったのです。

ユダヤ教では土曜日が安息日です。正確には金曜日の日没から土曜日の日没までで、その間は律法で定められたことを固く守らなければなりません。

本来の安息日の規定はこのようになっています。

安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである」(出20:8~11)。

ここでは、「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どんな仕事もしてはならない」と述べています。それは、すべての縛りからの解放を告げる言葉です。雇い主も雇われている人も、家畜も、畑も、何もかも、あらゆるこの世のしきたりや契約関係の守るべきこと、さらには心と体の病からも解き放たれて、癒されて、自由になる日として定められました。

しかし、「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どんな仕事もしてはならない」という尊い勧めが、より多くの律法を守らなければならない日になってしまいました。それは、安息日をより大切に守るために作られたのだと思いますが、その結果人をとても不自由にさせてしまいました。いくつかのことを申しますと、安息日には200メーター以上歩いてはならない、火を使ってはならない。そのために安息日が始まるまでに食べ物などは作っておきます。これらは今でも守られていますが、今は、携帯電話や電化製品も使ってはならない、そして公共機関の乗り物や車を走らせてはならない・・・。

このような不自由さの中に、自由そのものでおられるイエスさまが入ってこられて、十八年間も、つまり限りなく不自由な生き方を強いられていた女性を解放し、自由を与えてくださったのでした。真っ直ぐに歩くように、堂々と顔を上げて自分の目で見、自分の感覚で味わい、味わったものを自分の言葉で表現をして人々と分かち合って生きる素晴らしい世界へ導いてくださったのです。

十八年間も、もしくはもっと多くのときを、私たちも、古い考え方に縛られて、暗闇へ死への恐れの故に新しい始まりを躊躇し、腰が曲がったことを知っていてもそのまま、つまり、真っ直ぐに自分自身を立て直さないまま安息日を過ごしてきたのかもしれません。声の大きな人の意見に左右され、教会の伝統だからとか、聖書がそう言っているからという理由で、私の視点が奪い取られ、私の言葉が奪われ、自由が奪われ、鷲のような若さを分かち合ってくださるイエスさまとの関係が妨げられても、どうせそのようなものだからと諦めてきたのかもしれません。

しかし、諦めてはなりません。死の力は私が諦めることをずっと待っているからです。私が諦めた隙を狙って死の力は働き始めるからです。

いろいろのことに意気消沈している自分に気づき、その自分を絶対視せずに疑うのです。あの人この人がこう言っているからとか、あの本の中に書いてあるから私はこう思うというのではなく、むしろ、その私を疑って、少なくても今はイエスさまが、腰が曲がった一人の女性に関わってくださっている姿に集中するのです。その女性は誰なのか。イエスさまは今誰に手を当ててくださっているのか。そうやってイエスさまに集中するときに、イエスさまが、私の、あまりにも酷く曲がってしまってどうすることもないこの体、この心、この魂に手を触れてくださっている、私を癒しておられるのが見えるでしょう。そして、鷲のような若さを注いで、躊躇することなく新しい始まりを生きるように、成熟した歩みへ私を甦らせてくださっていることがわかるのです。

百歳、百二十歳になって、この世を去るその歳になっても、私たちが、気力を失せるどころか、他者と繋がって他者と分かち合うその道を歩むように、安息日の主は、今、この時、私たちに鷲のような若さを新しく注いでくださっています。