自分の魂

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自分の魂
(ルカによる福音書12章13~21節)

説教  加部佳治
(鵠沼めぐみルーテル教会信徒)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。 アーメン。

「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。」とイエスは言います。

今日の箇所は、遺産を自分にも分けるように、兄弟に言って欲しいという人に、イエスが答えて言われる場面です。イエスに言ってきたこの人は、自分が当然受け取れると考えていた遺産の取り分をもらうことができなかったのでしょうか。申命記21章17節には、長子の権利について、長子である兄には「弟の2倍の遺産の分け前を与えなければいけない」とあります。この人の兄との遺産の分け方が律法に叶っているものだったのかどうか、今日の記事からは良く解りませんが、その後に「あらゆる貪欲に気をつけ・・・」とイエスが言っているのは、この人は律法で定められた以上の分け前を、兄弟から求めようとしたのかもしれません。

イエスは、この人の求めに対して、「誰が私を裁判官や調停人に任命したのか。」と要求を却下して、さらに続けてこう言われます。

「有り余るほどの物をもっていても、人の命は財産にはよらないからである」 つまり、その人の人生の価値は、富や財産を尺度にして評価されるものではないと、この人に譬えをもって伝えます。

『どうしよう。作物をしまっておく場所が無い』 ある金持ちは自問自答します。

『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで・・・』と。

「ある金持ちの畑が豊作だった。」豊作は歓びです。神様の祝福です。ただし、豊作の後には必ず飢饉が来ることは知られています。この金持ちだって、当然知っているはずです。古来より人々は豊作の歓びを分かち合うと同時に、共同体全体で蓄えをし、次なる飢饉に備えました。創世記では、エジプトでファラオの夢の説き明かしをするヨセフも、この豊作と飢饉の7年ごとの繰り返しに触れ、ファラオに進言します。「これから訪れる豊年の間に食料をすべて集めさせ、町の食料としてファラオの管理の下に穀物を蓄え、保管させるのです。その食料は、エジプトの地に起こる7年の飢饉に備えての国の蓄えとなり・・・」ヨセフはこの進言でファラオを始め家臣に評価され、彼のエジプトでの出世が始まります。

ところが、この譬えの金持ちは、自分のために「もっと大きな倉を建てよう」と言います。「もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで」しまい込んで、つまり独り占めです。そして彼は「この先何年もの蓄えができたぞ。」と自分に言います。やがて来る飢饉への備えではありません。「さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」そう、彼は食べて飲んで楽しむために、自分の享楽、快楽のために豊作を「独り占め」しようとするのです。

そんな金持ちの態度にイエスは警鐘を鳴らします。「有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」と。

今日の譬えの結末、20節で、「神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか。』 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」と。財産を全部しまい込んで独り占めしても、神様がその人の命を救われるというわけではないと、イエスは言います。

金持ちに欠落している共同体で助け合う、いわゆる「共助」という概念。助け合って生きること。現代でさえ毎年のように起こる自然災害による農作物の被害。この時代であればなおのこと、飢饉に対する共同体の備えは切迫したものであったはずです。いずれ来る飢饉に備えて、共同体を存続するために収穫を蓄えるという「共助」の概念は、必然的にこの時代を生きる術だったと想像します。

そしてこの「共助」は、飢饉などの災害のためだけのものではありません。例えば申命記にある「収穫の10分の1の規定」私たちも10分の1献金と言いますが、これは神様に捧げるのではありますが、自分の収穫から取り分けた10分の1は、「レビ人や寄留者、孤児や寡婦がやって来て、満足するように、町の中に置かれなければいけない」と申命記14‐28で伝えています。飢饉のみならず、社会の弱者との「共助」です。そうやって共同体は成り立っているのです。

それなのに、この金持ちは自分ひとりの享楽のために「全部しまい込む」。

日本語の聖書には訳出されませんが、英訳の聖書には、ここの文章でmyと言う単語が2度登場しています。 my barns 「私の倉」、そして all my other goods. その他の財産全て、とあります。「私の倉」を壊してより大きいものを建て、そこに穀物や「その他の私の財産」全てをしまう。とあります。

そして、註解書によれば、ギリシャ語の原文では、私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産、そして私の魂 というように、所有格の代名詞である(ムー)という語がとても多いことを指摘しています。

私の作物、私の穀物、私の財産を、すべて私の倉にしまい込もうとする。

今日のイエスのこの譬えには、登場人物が「ある金持ち」1人だけです。彼の家族や友人、彼は地主でしょうから農作業をする雇人、そういう周りの人、つまり共に生活している、共に生きている人たちは、一切登場しません。この金持ちには、豊作の歓びを分かち合う家族、仲間は居ないのでしょうか?少なくともここには誰も登場しません。金持ちは常に自分一人で考え、自問自答し、そして蓄えを全部「独り占め」にしようします。「貪欲」がむき出しています。

さらに、彼が「しまい込む」のは収穫だけではありません。「収穫の歓び」も独り占めしている。金持ちの周りには、共に歓ぶ周りの人の存在が無いです。彼は「独りぼっち」。

この金持ちには、「共助」の概念どころか、「共に生きる」ことへの想いが欠落していること、金持ちの「心の貧しさ」つまり「独りぼっち」であること。イエスが本当に警鐘を鳴らしているのは、このことに対してではないか、と私は思います。

そもそも創世記2章で神様は、ひとが「独りぼっち」では良くないので、彼のあばら骨から、彼のパートナーを作ったとあります。つまり私たちは「独りぼっち」では生きて行けない。聖書はそう伝えています。

元首相が選挙運動中に凶弾に倒れるという忌まわしい事件が起き、新聞やテレビの報道は「民主主義への挑戦」と訴えました。しかしその後の経過の中で、犯人が統一教会への恨みから犯行に及んだことが明らかになり、「民主主義への挑戦」という見出しはマスコミから消えました。この事件は、個人的な悲劇への逆恨みだと。

このことに対して、ある政治学者の意見が新聞記事に掲載されていました。彼は、この事件は「民主主義の敗北」を示しているのだ、と言います。事件が「犯人の個人的な一種の逆恨みであり、政治的な問題ではなく民主主義とは関係がない」とするのは非常に表層的で意義を唱えたいと。

統一教会に不当にお金を搾取されたなら、本来なら裁判やマスコミなど世論に訴えるなどの行動に出ることができたはずなのに、それをすっ飛ばして殺害という凶行に走ってしまった。訴訟、言論、選挙で自分の境遇を変えられるという認識が、犯人には無いこと。これこそが「民主主義の敗北」を象徴していると政治学者は言います。

現代は多くの人が社会に対して不満を持っているけれども、そのほとんどが社会的な背景のある問題のはずなのに、あたかも個人の問題のように見えてしまう、と学者は言います。

たしかに、香港やミャンマーの若者が、SNSを通じて、自分たちの声を大きく結集し、強硬な政治体制に対峙しようと頑張っていたり、影響力のあるひとりのつぶやきが、大きな社会的発言になり、世の中を動かすこともあります。しかし、その一方で社会の中で、なす術もなく孤立し、独りぼっちになってしまっている人の存在が多いことも伝えられています。

同じ問題を抱える仲間、誰か力になってくれる人だとか、組織だとか、そういう本来あるべき社会基盤、かつての長屋の世話焼きのおかみさんのような存在だったり、本当に腹を割って話せる友達の存在が、現代の私たちの日常では欠落してしまっていて、そのために社会からこぼれた多くの「独りぼっち」を、今の時代は生んでいるのではないか、この学者の指摘は、そう言っていると思います。

この「独りぼっち」、今日の譬えの金持ちの場合は、最初はもっと周りに仲間がいたかもしれない、家族や雇い人とも仲良くしていたかもしれないが、彼が「より大きな倉を建てよう」と、欲に捉われていくうちに、次第に周りの人たちとの距離ができ、何よりも彼自身が周りの大切な存在が目に入らなくなり、自分ひとりの世界、「独りぼっち」になってしまったのだろうかと想像します。

もし、彼の周りに叱ってくれる長屋のおかみさんや、腹を割って話せる友達が居たら、この金持ちも「独りぼっち」にならなかったのかもしれません。

さて、自分の大きな倉に蓄えを全部しまい込んだ金持ちは、そこでこう言います。「自分魂にこう言ってやるのだ。」そして「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」と。

今回の信徒説教は、梁先生が開講された鵠沼塾で学びながら、原稿の準備をしました。鵠沼塾の最初の回は、今日の聖書箇所を黙想することから始まりました。聖書をゆっくり読んで黙想する中で、私の中に、この「自分の魂」という言葉が残りました。

この「自分の魂」とは、一体何を指すのか?と思います。例えば、私自身が「自分の魂」に何かを言ってやろう、というのはどういうシチュエーションなのか?と。

あれこれ思い巡らす中で、「自分の魂」とは、「自我」のように欲深い自分とは違い、もっと素の自分、つまり本来の姿、もっと言えば、生かされている自分、そのようなもののように、今は感じます。「こうありたい自分」や、「こうあるべき自分」ではなく、「そのままの自分」とでも言いましょうか、ちょっと適当な表現が見つかりません。

たぶんこの金持ちは、「そのままの自分」が解らない。捉えられない。だから敢えて、「自分の魂に言ってやるのだ」と力を込めて言います。そして「自分の魂」に「さあ安心して、」と言います。彼はいつも不安なのだと思います。彼は金持ちで大きな倉に全ての財産をしまい込んでいますが、それでも不安なのです。それは「そのままの自分」がわからないから。

だから豊作の収穫を「もっと大きな倉」に「もっと沢山の財産」を入れて、「安心したい」のです。

「さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」と彼は自分の魂に言います。彼はいつも不安で楽しくないのです。

でもこれは金持ちだけのことでは無いのではないか?私たちもそうなのではないか?と思います。

持っている物、お金、社会での立場や与えられた評価、とかくそういうことで自分の価値をはかってしまう、「こうありたい自分」「こうあるべき自分」にばかり気を取られてしまう。

本当は私たちもそんな感じなのではないでしょうか?

それとも、皆さんは 「そのままの自分」って、ちゃんと解っていますか?

私事になりますが、昨年会社を定年退職し、再雇用者として継続して勤務していますが、仕事上の責任はだいぶ軽くなりました。その分自由な時間も増えて、以前より関わっているボランティア活動に本腰を据えて、より「自分らしい生き方」ができる、と思っていました。

しかし最近思うのは、あれほど思っていた「自分らしい生き方」とは何だろうか?ということです。自由に、自分らしくと、本腰を入れれば入れるほど、ボランティア活動の世界の人間関係に苛まれたり、好きでやっているはずの活動で、そもそもの自分の力不足を思い知ります。本当にこれがやりたいことなのか?

急に迷いが出ます。

その一方で、会社での責任は軽くなりましたが、その分仕事を通して得られる充実感も減ったように感じます。何が原因かと考えると、仕事を通して関わる人との関係が、希薄になってきたと思います。責任が軽くなった分、相手と真剣に渡り合う場面が減ってきました。以前はこれでお腹が痛くなったり、苦痛の種でしたが、実はそういう周りの人との関係、それは良いことも悪いこともひっくるめて、そういう関係が希薄になってきて、会社での充実感が減ってきたのだと。

かたや、ボランティア活動では、より濃くなってきた人間関係に悩んだり、真剣に向き合えば、より自分の至らなさを痛感するわけです。

こうして1年半ほどが経ち、少しずつですが感じるのは、「自分らしさ」とは、自分ひとりで形づくるようなものではなく、周りの人たちとの日々の関係の中で、形になっていく、与えられていくのではないだろうか、ということです。

そのことを強く実感したことが、先週ありました。

一人の建築家の方が85歳で亡くなりました。ここ10年程大変お世話になって、最近もお会いしたり、メールのやり取りもあったので、高齢とはいえ、急なことに驚きましたが、同時に、この人と出会っていなかったら、先ほどお話ししたボランティアの活動に、私は関わっていなかったのではないか、と改めて思いました。

お別れの挨拶にと、逗子へ向かう途中で、この10年程のいろいろなやり取りが思い出されました。その中で、自分が進むべき道が絞られて行った、これは自分で道を決めたのではなく、その人との関わりの中で、導かれて行ったことに気が付きました。

こうやって、いろいろな人との様々な出会いの中で、自分は導かれていることを、今回のような悲しい、寂しさの時にしか、気が付くことの出来ない自分、普段は自分が一人で道を決めているように感じてしまう自分、私もあの金持ちと同じなんだなあと、つくづく思いました。

「自分らしさ」、先ほどの金持ちの「自分の魂」つまり「そのままの自分」は、いくらそれを求めても、独りぼっちでは得られるものではない。そうなのではないかと思います。

今日の最後のところでイエスは言います。

「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

一所懸命に大きな倉に財産をしまいこんでも、金持ちの命は、今夜取り上げられるとあります。「お前が用意したものは、一体誰のもになるのか」と神様は言われるのです。

自分のために、自分ひとりのために、「私の倉」にしまい込んだ「私の財産」は、そもそも「自分の魂」が何だかわからないこの金持ちには、いくら財産があっても「安心できない、楽しくない」と、神様は言うのです。

「独りぼっち」のままでは、「自分の魂」、つまり「そのままの自分」はわからない、掴めない。

周りの人たちとの関係の中で、喜びも悲しみも、分かち合う隣人との関係の中で、「自分の魂」は形づくられ、生かされていくのだと、イエスは私たちに言っていると思います。その分かち合う生き方、隣人と、そしてイエスその人と、喜びも悲しみも分かち合う生き方、それが、イエスの言う「神のために豊かになる」ことではないでしょうか。

兄弟から遺産をより多くもらうことではなく、先ずは兄弟と、心を分かち合う。喜びも悲しみも分かち合う。そのことから始めるようにと、イエスから言われているのだと思います。

お祈りします。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。 アーメン