後ろを振り向くな!

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ルカによる福音書9章51~62節

後ろを振り向くな!

秋になると、私たちの日本ルーテル教団の神学院は、各教会と教会だよりを通して牧師志願者を募集します。しかし、なかなか志願者が与えられません。他の教派も同様な状況に悩んでいるようですが、先週の主日礼拝の後に、北尾先生のお導きのもとで「LAOS 神の民」について学んだことが、私には大きな希望につながりました。その希望とは、私たちの教団が以前から取り組んできた、「信徒と教職が共に担う宣教」、それをもっと具体的に実現することです。改めて、北尾先生に感謝いたします。

本日の福音書にも、イエスさまの道に献身しようとする志願者が三人登場します。

初めの志願者です。彼は、「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)とイエスさまに対して積極的に決意を表明しています。しかし、イエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)とおっしゃって、ご自分の道の厳しさを表しておられます。

枕するところがない」とおっしゃるのは、実際に眠る場所がないことより、徹底して一人の道、自分自身で歩かなければならない道、その意味では深い「孤独」の道であることを表しています。以前、お話したと思いますが、私が献身の思いを抱いて祈っていたときに、教会の牧師からこう言われました。「牧師の仕事は、焚き火が燃えた後に残る灰を、一人で黙々と片付けることである」と。それだけ厳しい道であることを表そうとしていたのだと思います。しかし、そのときは頭では分かりましたが、切実に味わうようになったのは、現場に遣わされてからでした。

神の顕現、光の輝き、それの裏には深い闇があります。その深い闇に気づく者の孤独、それは、光と闇の両方を熟知する者にのみ訪れるものですが、イエスさまはそういう方でした。イエスさまは、徹底して神さまの光を現すために闇と闘われた方です。その孤独を、この志願者は理解できません。

ですから、イエスさまのように、謙虚に、神さまの前に自分を委ねて、神さまの可能性にすべてを信頼する歩みが求められるわけです。「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と話すこの志願者に、それができるか、その孤独の道をあなたは歩けるかとイエスさまは問いかけておられるのです。さて、彼はどんな選択をしたのでしょうか。

イエスさまは、すぐもう一人の人を指名し、「わたしに従いなさい」と勧めました。しかし彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言って、イエスさまの勧めを優先しません。それには、理由がありました。ユダヤ人にとって、父を葬ることは何事にも優先すべき義務だったのです。しかしイエスさまは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」と言って、その大切な義務を果たさなくてもいいとおっしゃっておられます。きっと、そこにいたユダヤ人の皆は驚いたのではないでしょうか。

そう考えると、イエスさまは何と冷たい方なのか、十字架の道はやはり厳しい道と思うことでしょう。

しかし、自分の都合に合わせて神さまを理解し、神さまの時を自分の時に都合良く合わせてはならないのです。私たちは、どうしても自分に与えられた時間や家族や隣人、そして財産、それらを神さまより優先してしまいがちです。日曜日の過ごし方も、献金も、神さまを優先して考えるときには、必ずそこに何らかの形で関わってくださる神さまの臨在に気づきます。その臨在に心驚かされたり、感謝が溢れたりすることが、イエスさまに従っていくということの証になっていくのです。

さて、もう一人志願者がいました。彼は、少し優柔不断のぐずぐずタイプのようです。

彼は、「主よ、あなたに従います。しかし、私の家の者たちに、別れを告げることを許してください」(61節)とイエスさまに申し立てました。しかしイエスさまはその人に、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」(62節)と言われました。

鋤に手をかけている状態。鋤を使っての作業は、私もルターハウスでいつも体験しているので分かります。イエスさまも鋤をお使いになって農作業をしておられたのかもしれません。鋤を使うときは、身体をちゃんと前に向けなければなりません。後ろを振り向きながらできる作業ではありません。後ろを振り向いていたら、別のところを鋤(す)いてしまったり、近くの人を怪我させたりもすることでしょう。

イエスさまは、その鋤の使い方と、ご自分に従う者の動きは似ていると思われたようです。

皆さんは、この三人のどの人に似ていると思いますか。

そして、この人たちは皆どうなったと思いますか。

私は、この三人は合格したと思います。

イエスさまの弟子たちが、どれだけ様々な弱さをもった人たちであったことか、思い出してください。今日の福音朗読でも、ヤコブとヨハネはサマリア人に憤慨して、「お望みなら天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」(54節)と提案し、イエスさまに厳しく叱られました。イエスさまの弟子たちは、みんなその弱さのゆえにイエスさまに呼ばれたのです。それを考えると、本日の福音書に登場する志願者は、間違いなく合格だったと私は思います。

教会の歩みもそうです。ヨハネとヤコブのように熱狂的な人がいれば、後から弟子入りする本日の福音書の三人のように、楽天的で何も知らずに従おうとする人がいたり、神さまより自分の都合を優先しようとする人がいたり、優柔不断でぐずぐずしている人もいるのです。それらが一つにまとめられるのは、神さまがその群れの先頭に立ってくださるときのみです。

先頭に立つイエスさまに従ってゆこうとするとき、どんな人であっても、どんな欠点や弱さがあっても、その人はイエスさまの神の国の宣教活動の一員として用いられます。その逆に、自分が先頭に立とうとするとき、牧師であれ信徒であれ、神の国の宣教活動には用いられず、自分自身を宣べ伝えるようとするところで終わってしまいます。

皆さまにも、そして私にも、神さまから与えられた賜物があります。それが鋤という道具です。その賜物を差し出すのです。賜物を差し出すその行為が「神さま、私の先を歩いてください」という祈りになるのです。そのとき、私たちは、くよくよと後ろを振り向いたりしません。自分が歩くべき凸凹の険しい道を、神さまが先に歩いておられることを知っているからです。

凸凹の道、悩みや病、老いる体、家族のこと、仕事のこと・・・風が止みません。しかし、そこで、自分の賜物を出してそれらと向かい合おうとするときに、そのただ中におられる神さまに気づかされます。神さまがその凸凹の道の先頭に立ってくださっていることに気づくのです。そのとき、どうやって私たちの心がどきめかずにいられるでしょうか。その悩みが、病が、老いが、面倒かける家族や気難しい仕事場の仲間が、神さまの現存に気づくための通路を作ってくれたと証せずに入られないのではないでしょうか。そこが神の国になるのです。

私たちは、趣味ではなく、神さまが私たちの心を時めかす相手となってくださっています。賜物を通して出会ってくださっているのです。

神の国を耕すようにもたらされた鋤、与えられた賜物、それを使ってどんどん先へと耕しましょう。愛して、抱きしめて、赦しを宣言して、神の国を広める働きにみんなで遣わされてゆきましょう。