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ヨハネによる福音書16章12~15節

青春まっただ中

ロシアがウクライナに侵攻して100日目のある新聞に、プーチン大統領の言葉が載っていて、そこでは「三位一体」という言葉が使われていました。「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアは三位一体だ」と。「どこまでがベラルーシで、どこまでがウクライナか、どこまでがロシアかということを区別して考えていない」という言葉でした。つまり、ウクライナもベラルーシもロシアのものだという言葉です。それは、私のものは私のもの、あなたのものも私のものという独裁的な考え方です。

ちょうど今日が三位一体主日だったので、興味をもって読みましたが、本日の福音書のイエスさまのお言葉の中にも似たような表現があります。

父がもっておられるものはすべて、私のものである」とおっしゃることです。それが、プーチンさんの発言に似ているように聞こえます。しかし、その意味は正反対です。その続きを読むことでイエスさまのおっしゃる意味がわかります。つまり、イエスさまは、神さまの豊かさをすべて受け継いでおられること、そしてそれを、その方と呼ばれる真理の霊が私たちひとり一人に惜しむことなく分かち合ってくださること、それを述べておられるのです。独り占めしようとしておられるのではありません。

さて、今日は三位一体主日。三位一体の神さま。これは、キリスト教の教理の一つです。父と子と聖霊なる三つの位格が一人の神の中にある。つまり、一人の神の働きの中に、父なる神と子なる神と聖霊なる神の働きが含まれているということです。

しかし、このことが教理の教えに留まってしまわないためにも、三位一体の神さまの招きを受けている私たちが、三位一体の神さまの働きに生かされなければならないと思います。なぜなら、三位一体の神の中に留まるときに、私たちは、イエスさまが真理の霊を通して分かち合ってくださるものをいただくことができるからです。

それをちゃんといただくことができるときにどういうことがおきるか。 私たちの若さが保たれるのです。

いつか、聖霊はいつも若いというお話をさせていただいたことがあると思います。聖霊の若さというのは、人間的な、10代、20代の旺盛な若さと言うより、成熟した若さのことです。フレッシュで、シンプルで、常に人に寄り添う若さです。ちょっとしたことでいらいらしたり、関係作りに疲れて飽きてしまったり、何かが不足したり、過去のことでくよくよしたり、未来のことであれこれと心配したりしない若さのことです。

イエスさまは、本日の福音書のはじめに、「その方、真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」と述べられました。

真理の霊は、ひたすら耳を傾けて神さまの御心が何であるかを聞く方であるということ。なぜなら、それを間違いなく具体的に私たちに告げるためです。それが若さとどういう繋がりがあるのだろうと思うかもしれません。しかし、成熟した若さとは、どんな人と向き合っても、どんな状況に置かれても、その人や状況から希望を見出します。人のうめきの声や絶望的な状況に寄り添い、その人が話している言葉尻でものごとを判断してしまうのではなく、その言葉を通して何を伝えようとしているのかを豊かに想像し、話したくても言葉にできないことは何だろうと思いやる、そういう若さです。もちろん、それは相手に対してのみならず、自分自身の内面の深いところのうめき言葉にも耳を傾ける若さだと思います。

人間も他の被造物も、時の流れとともに歳を取り、肉体は衰えていきます。しかし、肉体が衰えても心も一緒に衰えるか、そうではありません。肉体は若いのに、希望を見出せず、命の力を失いかけている若者もいます。生きてもどうせ死ぬのならここで死んでしまった方がいいという、虚無感に陥っている若者も少なくありません。さらには、人を騙してものを奪い取ったり、自虐の念を強くもって自死を考えたり、多くの若者が死にさらされています。

バリバリと働く40代、50代の人の中にも、人生の喜びを見出せない人、今のありのままを幸いと受け止められない人、与えられた家族や仕事場や隣人との関係において感謝の思いを抱けない人たちがたくさんいます。若くても、自分自身の中の深い所に潜んでいる可能性や、そこから生み出される豊かさを見つめる余裕をもち、それを味わう人がどれだけいるでしょうか。

先週の月曜日、皆さんもどこかで見ておられたのではないかと思いますが、冒険家の堀江謙一さんの記事を読みました。彼は、小型ヨットに乗って、69日間をかけてサンフランシスコから太平洋を横断して、8500キロの距離を無寄港で日本に無事に帰ってこられました。その年齢83歳。この記事を読んで、ああでもないこうでもないとくよくよと悩んでいた私ははっとさせられました。もちろん、堀江さんのこうした冒険は今回が初めてではありませんが、それにしても、83歳の方がトライすることのようには、どうしても思えないような冒険だったからです。

堀江さんは、着いた港で迎えられた人々にこんな風に話されました。「夢を夢で終わらさない」、「生涯チャレンジャーで生きたい」、そして、「僕はいま青春まったただ中です」、「すべてを燃やし尽くしました」と話しておられました。

私は、堀江さんにお会いしたことがないのでどんな方かわかりませんが、きっと、シンプルで、フレッシュな方なのではないかと思いました。私のようにああでもないこうでもないことでくよくよしていたら、冒険になんか出かけられません。もしかしたら、海の上で死ぬかもしれない、家族とは二度と会えないかもしれない、ヨットに乗らなければもっと長生きできるかもしれないというようなことに延々としがみついていれば、先へ進まなかったのだと思うのです。堀江さんは、恐れずに、今自分にできることを、シンプルに選び取るチャレンジャーだと思います。

それは、頭の中で三位一体の神について考える私に、牧会者である以前にチャレンジャーでありなさいと勧められたような思いでした。

きっと、その堀江さんの姿に、私だけではなく、小さい子どもから大人まで、多くの人が勇気をいただいたことでしょう。特に、コロナ禍であり、ロシア・ウクライナの戦争のことで私たちの気持ちや生活が沈んでいるところに、堀江さんは新鮮な喜びをもたらせてくださったのではないかと思います。たとえ、今、置かれた状況が好ましくない状況であっても、年齢が若くても年老いていくつになっても、新しい始まりを生きられる、というメッセージをくださったのではないかと思います。

その方、真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。

私は、与えられた自分の人生に対してもすぐ不平不満を抱いてしまいますし、共に生きるようにしてくださった家族や教会の仲間たちに対しても、自分の辛さをその人のせいと、すぐ責任転嫁をしてしまいます。小さなプーチンさんの姿をしているのです。

それにもかかわらず、その方、真理の霊は、謙虚に、諦めることなく私と向かい合ってくださいます。自分勝手に何かをなさるのではなく、イエスさまがくださる神さまの豊かさをもって、私たちを死ぬその瞬間まで支え、保ってくださいます。私が神さまのことを否定するときも、イエスさまを知らない人のように人々の前で振舞うときも、肉体の衰えに生きる喜びを失うその瞬間も、変ることなくその私を包み、慰めてくださいます。

そこから始めなさい、今置かれたところがあなたの始まりのための最もふさわしい場所であると告げてくださる、その真理の霊、聖霊の働きの中で、私たちは今週も神さまの豊かさを生きる者として招かれています。この方の中にこそ、癒しも、赦しも、愛する力も、生きるためのすべてが備えられている、今が私にとっては青春まっただ中であることに気づき、どんどん先へ進みましょう。