都に留まっていなさい

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ルカによる福音書24章44~53節

都に留まっていなさい

人の性格は変らないと言われます。しかし、人同士の関係の中では変わらないのかもしれませんが、神さまが介入してくださるときには、変らざるを得なくなります。被造物は、創造主の介入に抵抗することはできないからです。私たちを造られた神さまの介入によって、私たちは、その内面の深いところから変えられ、新しく生まれ変わってゆきます。古い自分が死に、新しいキリストの体に甦るという出来事が自分の中で起き、それによってその人の性格も変わって行くのです。

主の弟子たちはそのことを分かりやすく私たちに証してくださっています。

ルカ福音書の24章36~43節で彼らは復活の主を見て、霊を見ているのだと思い、恐れおののいています。それは、本日の日課のすぐ前の節ですが、新共同訳では「亡霊を見ているのだと思った」と訳されています。復活の主を見ても、亡霊を見ていると思って恐れ、怯えるしかない、あまりにも人間的でいつまで経っても変らない弟子たちの姿がそこにあります。しかし、その続きの本日の日課の最後方では、天に上げられるイエスさまを見送ってから、「大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(53節)と、まったく異なる姿が記されています。弟子たちの中に変化が生じたのです。恐れを喜びに、疑いを信頼へと変えてくださる方に、弟子たちは出会ったのです。

今日は主の昇天主日です。主の昇天が私たちに伝えるメッセージがこの弟子たちの姿の中にあると思います。

弟子たちは、主に従うという道のりの中で、多くの奇跡を体験し、数々の恵みに与りました。しかし、それ以上に多くの失敗を繰り返し、疑い、傷つき、裏切るという経験をもっています。その弟子たちの中に、主の昇天のときに、神さまの愛と赦しの物語が芽を出すようになりました。

そのようなことを考えるとき、神の愛と赦しの営みの中に与り、その中を生きるということは、洗礼を受けたら自動的に与えられるものではないことがわかります。きれいごとではないということです。

弟子たちは、昇天されるイエスさまからこう告げられました。「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」と。

 

高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」。この都とはどこのことで、そこに留まることは何を意味するのでしょうか。

普通、都とはその国の中心地になります。イスラエルの都はエルサレムでした。そこにはヘロデ王の宮殿があり、エルサレム神殿が建てられていて、人々は、祭りを祝う度にエルサレムへ上って来ていました。すべての祭りはエルサレム神殿で行われていたためです。イエスさまも過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに来ておられた際に捕らえられ、十字架刑に処せられたのでした。

日本の都は東京です。東京には皇居があり、東京はエルサレムと同じように政治の中心地です。しかし、私たちは礼拝を守るために東京には行きません。東京にも教会がありますが、私たちが礼拝をし、祭りを祝うところは鵠沼めぐみルーテル教会だからです。私たちの信仰生活の中心地はここだからです。ですから、私たちにとってイエスさまが言われる「」とは、この鵠沼めぐみルーテル教会になります。イエスさまは、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」と言われました。それで私たちは、イエスさまが約束してくださったものを受け取るまで、家に帰らずにずっとここに留まって待つことになるのでしょうか。それはそれでいいのかもしれません。

しかし、「都に留まる」ということを、もう少し視点を変えて考えてみるとき、それはこの教会、鵠沼めぐみルーテル教会という共同体の信仰に留まるということだと思うのです。そうなると、私たちの教会共同体の信仰とは何だろうと思い巡らすことでしょう。または、他の教会との違いを見出そうとするかも知れません。もちろん、ルーテルであるということ、教会の規則、告白する信条や礼拝の式文などには、他の教会との違いはあるかもしれません。聖餐に関する聖餐論だけでも、教派間で多くの違いがあります。

しかし、そのような違いから教会共同体を理解しようとすることは間違っていると思います。信仰告白や聖餐論などは、それぞれの教会の秩序を保つためにあるものなのです。その教派・その教会の目に見える秩序を保つためのものとしては大切なものです。しかし、神の恵みやイエス・キリストの真理の働きを~論として論じて、その中に留まってしまうかぎり、私たちの信仰は概念的な世界に留まり、光の中を歩くことができません。さらには、教派間・教会間の対話も成り立ちませんし、むしろ分裂を生み出すばかりです。

そうではなく、共同体の信仰に留まるということは、この教会を体としておられるイエス・キリストの中に留まるということ。教会がキリストの体である限り、ここはイエス共同体です。イエス共同体はイエスの愛に生きる家族・コミュニティーです。旅人をもてなします。貧しい人々に自分の持ち物を分かち合います。病んでいる人のために祈り、孤独な人を訪ねます。さらには、イエス共同体の中では、死者の復活が起きます。つまり、そこに集まる人々の古い姿が新しいイエス・キリストの体に甦るという、死と復活の出来事が生じます。そこがイエス・キリストの体なる教会共同体です。鵠沼めぐみルーテル教会はそのような共同体なのです。

主の弟子たちは、復活のイエスさまに出会いながらも、なお疑い続けました。恐れ、不安、怯えという暗闇の力に支配されていました。自己目的を達成するためにイエスに従おうとしていた間違った動機づけが変わるまで、かなりの時間がかかりました。彼らは、イエス共同体の中にいましたが、出世と富と権力を手に入れることを目標としていたので、仲間同士の関係もばらばらで、共同性を作ることができませんでした。

私たちと何一つ変わらない弟子たちです。しかし、その彼らの心の扉が神に向かって開かれ、恐れと不安が喜びへと変えられました。弟子たちはいま、神さまから注がれる愛と赦しを味わっています。主の昇天を通して彼らは、聖霊の働きの中に自分を委ねる勇気をいただきました。もし、イエスさまが昇天なさらずにそのまま地上に留まっておられても彼らがこのように変わったのかどうか、それはわかりません。

離れるということ。離れることによって留まることができるということ。これが真理です。太陽と月は常に一緒に動きます。けれども、この二つは天と地のように離れています。決して片方が姿を崩して一つに属するように強いることはありません。神さまは被造物をそのように作りました。離れるのです。つまり、イエスにつながるために、自分自身の概念的思考から、執着から離れるのです。弟子たちは、その真理を悟り、世界の果てまで遣わされてゆきます。そして、殉教をするまでイエス・キリストの愛の中を生きる共同体の一員として働きました。

先週体験したことを一つ分かち合って終わりにしたいと思います。

6月2日に脳の手術を受ける友人が、入院の前に海が見たいということで訪ねてきました。清々しい風が吹いている晴れた日で、海に行き、友人が砂浜で石を探したりしている間、私は波の音を聞きながら一人座っていました。目を閉じてずっと波の音に耳を傾けました。そうしていると、波が私の傍に近づいてきてゆらゆらと音を出し、どんどん私の後ろにまできて私を囲むのです。そのうちに私は波と一緒に海の上をゆらゆらと行ったりきたり、そうしていることが心地よくて、ずっと身を任せたままいました。ただただ風に寄せられる波といっしょにゆらゆらとしている。何のためにとか、どこへ行くのという目的もありません。ただ揺れていました。病んでいる友人のために案内した海辺で、私が癒されたのでした。

それで、自分がどれだけいろんなことに抵抗しながら生きているのかということが分かりました。風の動きに任せていればいいのに、自分の考え方、自分が描く美しさ、もっと良い方へ物事をもって行こうとがんばり、結局疲れ果てているそんな自分の在り方に気づかされました。

 

イエスさまは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ6:26)と、「だから重荷をおろして軽くなりなさい」、「すべてをわたしに委ねなさい」と、語りかけておられます。イエス共同体に留まるということは、自分の考えや「これだけは譲れない」という思いをイエスさまに委ねるということです。ともに道を歩む仲間たちを限りなく愛し、受け入れ、ゆるし、支えあってゆくことです。

父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」と、昇天なさるイエスさまの勧めに従って、恵みにさらに恵みを増してくださるイエスさまによって結ばれたこの共同体の中に留まりましょう。