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ルカによる福音書24章1~12節

立ち上がる

キリスト復活! 実に復活!

主のご復活を心より喜び申し上げます。皆さまの毎日が、復活の主によって支えられ、信仰がますます強められますようにお祈りいたします。

これで私たちは、イエス・キリストの死と復活の証人になりました。とても大切な役割が与えられました。特に今、コロナ禍と戦争によって多くの難民があふれ出ている最中、復活の証人としての働きが求められています。年配の者も子どもでも、忙しくても暇でも、病弱であっても健康であっても、貧しくても富んでいても、復活の証人として私たちは遣わされています。

復活の証人として生きるためには、豊かな視野が必要だと思います。視野が限られると、すぐ前の段差が見えなくて躓いたり、遠くにイエスさまを探したりして、目の前にいるイエスさまに気づかないことがあるのです。

復活の証人として歩む道は、また多様性を生きる道でもあります。復活の命が流れる世界は、カラフルです。白黒でもなく、左か右かでもありません。いろんな色が調和を成し、左から右に行く間にたくさんの方向があることに気づかされる世界です。

さて、復活の朝、女性たちは、安息日が開けるや否や、イエスさまのご遺体に香油を塗るためにお墓へ急ぎました。お墓へ急ぐ女性たちの様子を思い浮かべてみるとき、イエスさまがお亡くなりになってから二日間、彼女たちはどうやって過ごしたのだろうと思ってしまいます。大好きだった方が、別れを言う間もなく十字架刑という重い刑に処されて死なれたのです。ユダのアリマタ出身のヨセフと一緒にイエスさまのご遺体を十字架から降ろして、お墓へ納めることを手伝うことはできましたが、すぐ安息日が始まったために、香油を塗る間がなかったのです。

今、お墓の方へ急ぐ女性たち。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、ルカ福音書に登場するこの女性たちには勇(いさ)ましさがあります。墓の入口を塞いでいるかもしれない大きな石のことで悩んでいません。アリマタのヨセフを手伝っていたので、ご遺体が置かれた新しいお墓の位置も知っています。まっすぐお墓に向かい、入口が開いているのを見ると、いっさい躊躇うことなく中へ入って行きます。なんとたくましい姿でしょうか。

しかし、イエスさまのご遺体が見当たりません。途方にくれていると、輝く衣を着た二人が現れて言うのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話なさったことを思い出しなさい」。

怖くて地に顔を伏せましたが、頭の中ではガリラヤで聞いていたことを思い出しています。「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」と、何度も言われていた主の言葉を、はっきりと思い出しました。

その時、彼女たちの中に確信が芽生えました。主は生きておられる!主は復活なさった!み言葉が実現された!と。

とんでもない事実が、主がおっしゃっていたお言葉を想起したことによって、信じられました。

香油を塗るためにお墓へ急ぐときには、イエスさまのご遺体に執着し、香油を塗らなかったことばかりに心が捕らわれていました。しかし今は、イエスさまの体が見当たらなく、香油を塗ることができなくても、大丈夫。悲しみに暮れて暗闇に覆われていた心には新しい希望が芽生え、早く、人に、暗闇の中にいる人たちに伝えたい、伝えようと、彼女たちはお墓から立ち上がるのでした。彼女たちは、復活したイエスさまにまだお会いしていないのに、主の復活を信じたのでした。

 

彼女たちがいるお墓、そこはどんな場所なのでしょうか。死んだイエスさまが横たわっているはずの場所。つまり、絶望と悲しみの場所、愛する者を余儀なく失った悔しい場所にほかなりませんでした。そこへ彼女たちは堂々と入って行き、そこが空っぽであることを確認したのでした。お墓の中に死者はおらず、イエスさまが生前お話しておられた言葉だけが響きます。「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」。

彼女たちにとってそこは、再生の場所、古い衣を脱ぎ捨てて新しい衣に着替える場所、白黒しか見えなかった視野がカラフルに見えてきた、生の転換時点でした。そこで、彼女たちは、立ち上がったのです。絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、悔しさから感謝へ、自分の殻を破り他者との連帯へ立ち上がったのでした。いま彼女たちは、永遠へと通じる門の前に立たされたのです。

彼女たちは、急いで、死を恐れて部屋の中に閉じこもっている男の弟子たちのところへ走りました。そして、見たこと、聞いたこと、お墓で経験した一部始終を伝えました。しかし、男の弟子たちは、馬鹿げたことと思い、彼女たちの証言を信じませんでした。これが人の現実です。

しかし、ただ一人、ペトロだけはすぐ立ち上がって墓へ走ります。彼自身、闇の深い人でした。

イエスさまのことを「生けるメシア」と告白もすれば、大祭司のアンナスの前でイエスさまを知らないと否認したりして、多くの闇をもっている人でした。イエスさまが好きだったのです。だから、何とかイエスのために役に立ちたいという熱心さが的を外れ、イエスさまを裏切るという結果を生み出してしまったのでした。

私たちも多くの闇を抱えています。人間関係が思うようにいきません。好きだからこそうまくいかない場合が多くあります。ささやかなことで傷つき、一所懸命にやっても報われない虚しさをももっています。教会に躓き、信仰に躓き、歳をとるにつれて失うことばかりが増えてきている、そういう喪失感の中で、どうやって立ち上がるのかわかりません。立ち上がるどころか、心の扉を閉ざしてどんどん孤独の中に座り込んでいく自分がいます。何年、何十年・イエス・キリストの復活祭をお祝いしていても、新鮮さはなく、単なる儀式の一つにしか思えなくなってきた。主は生きておられる!という驚くべき知らせに、驚かない私になっている。

今日、教会ニュース4月号が発行されますが、そこに、今上映中のドライブ・マイ・カーをご紹介させていただきました。原作は、村上春樹さんの「女のいない男たち」という短編ですが、彼の他の短編集も参考にしながら、村上春樹さんが大切にしているものを脚本にして作られた映画です。人の人生をつかんで離さない喪失と孤独、それがその先にある世界や他者との出会いによって希望につながるという内容です。私はとても感動しました。長びくコロナ禍による喪失感、さらには家庭内の問題、親子関係、夫婦間の葛藤、社会の課題、戦争と平和・・・今の私たち皆が抱えている課題がそのまま網羅されている映画です。

この映画は、アカデミー賞で、国際長編映画賞を受賞しました。カンヌ映画祭では、日本の作品としては初めて脚本賞を受賞しました。2012年から企画が始まり、2021年に上映されるまで、10年という長い年月がかかったそうです。そのことを監督の濱口竜介さんはこう述べていました。「時間をかける意志さえあれば、せき立てられるように仕事をしなくても済むし、お互いをリスペクト(尊敬)する環境も生まれやすい。映画界だけではない。時間をかけて、本当に価値があるんじゃないかということを、みんなでやることができたら、今より少し幸せじゃないかと私は思う」と。

映画はもちろんのこと、この濱口監督の話を読みながら、私たちの信仰の道を述べているように思いました。小さなことに拘り、いつまでもくよくよと悩んでしまう。だからなかなか前へ進まない、赦せない、愛せないという闇の中を右往左往しているということが分かっていても、パットそこから立ち上がれない。そんな毎日でも、本当に大切なことを、みんなでこつこつとやってゆこう、そしてそこに光として復活なさった方が一緒にいてくださるなら、そこは、光の世界、みんなで共に歩くカラフルな世界です。もう永遠の命の道のりを、私たちは歩き出したのです。

ご紹介しました映画で主人公の西島秀俊さんは演出家を演じますが、彼が演出する劇の登場人物は多様多種な人たちです。国籍や民族が違うばかりかセリフは母語そのままです。手話のセリフもそのまま。それでも通じ合える世界があるのです。私たちはみんな背景や性格や考え方が異なります。しかしそんな私たちが、みんなで共に歩き続けます。闇が深ければ深いほど、復活のイエスさまがそこに共にいてくださいます。もう恐れることはありません。必ず夜明けが訪れます。キリスト復活! 実に復活!