いかに聞くか

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ルカによる福音書4章14~21節

いかに聞くか

ナザレで安息日を迎えられたイエスさまは、安息日を守るために会堂に入られました。イエスさまはいつも聖書朗読の奉仕をなさっておられたのでしょうか。この日も自然に朗読台にお立ちになりました。するとイザヤ書の巻物が渡され、開いてみると、このような預言の言葉が書かれた箇所でした。

「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18~19)。

この預言の中で「私」と書かれているのは、旧約と新約の関係から、イエスさまのことと考えられます。つまり、朗読台に立たれたイエスさまが開かれた箇所は、ご自分について書かれている所だったということです。

それを朗読されたとき、会堂の人々の視線がイエスさまに注がれました。そこでイエスさまはご自分を見ている人々に向かってこう述べられます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21)と。ますます人々はイエスさまのこのお言葉に驚き、イエスさまのことを誉めたたえ、そしてその心が開かれたのでした。このことは、み言葉を朗読する人と、それを聞く人の姿勢がとても大切であることを教えていると思います。

本来は、礼拝の中でみ言葉を聞くのは、聖書の朗読を聴くことで終っていいのかもしれません。昔の教会では、そうだったのです。聖書朗読に続く「説教」がこれほど重要なものと理解されるようになったのは、きっと宗教改革以降のことではないかと思います。さらに、19世紀になると聖書学の研究が進み、その影響によって、説教学という学門も生まれました。

今は、礼拝の中に何が何でも「説教」が必要だと多くの人が思うようになりましたが、本来は、み言葉の朗読がすべてだったのです。み言葉の朗読だけで十分であり、朗読する者は全身全霊で朗読し、それを聞く者は全身全霊をこめて聞いたのです。そのとき、朗読されて聞かれたみ言葉は実現され、み言葉は、聞いた人の中に入ってひとりでに成長し、働き、その歩みを支えるものとなるということです。

本日の福音書朗読でイエスさまはこう告げられました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。このことについて。もう少し分かち合いたいと思います。

私は、牧師として、語る者として召されました。私の使命はみ言葉を語ることです。語るためには、先ず、聞かなければなりません。説教の準備は聞くことから始まります。与えられたみ言葉を何度も読み、読んだものを黙想し、そして神さまの前に座って祈ります。聞く時間です。

しかし、聞くことには、たくさんの忍耐が必要です。神さまはそう簡単には祈りに応えてくださらないのです。というか、私自身の心がシンプルではないために、神さまの声に耳が開かれるまで時間がかかります。そのような忍耐を通して、説教の原稿が何とか出来上がるのですが、多くの場合、それは皆さんに伝える説教というよりも、私自身のためのメッセージなのです。私は皆さんに語りながら、実は私自身が聞いているのです。

聞くということには忍耐が必要だと申し上げましたが、それは神さまに対してだけでなく、他人の話を聞くときも同様です。じっと他者の語る話に耳を傾ける、これは福音の実践の基本なのです。

しかし、大体の人は、あまり人の心の声まで聞こうとしません。場合によっては、聞きながら相手が言っていることを裁き、良し悪しを判断してしまいます。

そのことをわかりやすく知らせてくれることが私たちの日常にあります。食事のときに、私たちは、食べ物の音にはあまり関心を持っていないと思います。しかし、口の中に入ってきた食べ物を噛みながらその音を聞いて見ると、すべての食べ物にはそれぞれの音があることがわかります。みんな違う食感を持っていて、噛むとときに出す音も異なります。いろんなものには固有な音があるのです。一つ一つの音を聞こうとすると、固有の音を聞くことができます。それは喜びにつながる瞑想のときです。

しかし、ほとんどの人は、舌の感覚で口の中に入ってきたものを判断します。甘いかしょっぱいか、美味しいか美味しくないか・・・つまり、自己中心的なあり方で食べ物のことを判断し、決め付け、点数をつけているのです。すべては自分中心です。耳を傾けて、そう本当にシンプルに、ありのままに味わうことを知らないのです。

ルターハウスに行ったあるとき、瞑想をしながら野川公園を歩いていました。せっかくだから聞くことに集中して歩こうと思って公園に入ると、そこにはテニスをしている人たちがいました。野川公園には、東京都が運営しているテニスコートがあるのですが、そこを通るたびに、私はテニスをしている人たちを羨ましく思い、忙しくてテニスができない自分を不幸な人のようにさえ思っていました。ところが、テニスのボールがラケットにあたる音を、ただじっと聞いていると、とても心地よく聞こえたのです。乱れていた心が落ちついてきて、大波になっていた海が凪になるような、深い平安の中に導かれました。何の価値判断もおかずにただ聞くということが、どれだけ聞く人に力をもたらすものかを、その時に経験しました。

ナザレの会堂で、イエスさまの朗読を聴いていた人たちは、何の価値判断からも自由に、ただシンプルに心を開いてその朗読を聞いたのでした。イエスさまの声にはそうさせる特別な威厳があり、人々は福音を予感したのです。

しかし、本日の日課をもう少し読み進めますと、人々は激変して、イエスさまのことを「ヨセフの子ではないか」と言い放ち、イエスさまを山の崖から突き落とそうとしました。

いかに聞くか。
このことは、み言葉に聞く私たちにとって死ぬときまでの課題とも言えましょう。
しかし、イエスさまは宣言なさいました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。それでは何が実現したのか。はっきりこう告げておられます。捕らわれている人が解放され、目の見えない人に視力が回復し、打ちひしがれている人は自由にされ、主の恵みのときが訪れた」と。

ナザレの会堂にいる人たちが耳にしたとき、そして、今、鵠沼めぐみルーテル教会で私たちが耳にしたときに、み言葉は実現しました。つまり、私たちが、偏見や身勝手さでみ言葉に対しての聞き方を誤ってしまっているとしても、み言葉はひとりでに私たちに入ってきて、私たちの霊的体を養い、成長させて行くということです。

つまり、イザヤの預言の中の述べられている「捕らわれている者、目の見えないもの、打ちひしがれている者」とは、この私のことだと言うこと。その私に福音を宣べ伝えて、私を自由にするために、イエスさまは遣わされ、そして十字架の上で命をささげてくださったのです。

そのイエスさまは、今やみ言葉を通してご自分の姿を私たちに示してくださいます。そのみ言葉は、聞いた人を立ち上がらせるほど力強く、しかし同時に、その姿はとても小さく人の力では見つけることができないほど、謙遜で、貧しいのです。

謙遜で、貧しい姿のみ言葉。小さいけれども、私を生かすために私の聞く耳を通して私の中に入ってこられ、そっとひとりでに働かれるみ言葉、イエスさまを、今週の私たちの歩みの中で見つけ出し、その方に耳を傾けることができますように。アーメン。

希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊に力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン。