体の復活

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2022年 キリスト教一致祈祷週間 説教

テーマ:わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです(マタイ2:2)。

体の復活

私たちは、教派が異なっていても、いくつかの大切な告白を共有しています。その一つは、「体の復活を信じます」という告白です。

「体の復活を信じる」とは、どういうことでしょうか。それは永遠の命のめぐみにあずかるのは、単なる心や魂のことではなく、イエスさまの身体性、すなわち受肉されたイエスさまのご生涯、その十字架とご復活の神秘に、私たちもこの身体、この体をもってあずかるということなのです。そして、この日常の日々の中で、単なる心や思いや頭の中のことではなく、この身体、この体をもって福音を生きるということではないかと私は思います。

さて、今年のキリスト教一致祈祷週間のテーマは「わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです」という御言葉です。

私は、今年の一致祈祷週間のテーマの中の東方の学者たちは、私たちが毎週告白している「体の復活を信じます」という信仰告白を実践したのだと思います。

この占星術の学者たちは、長い間、救い主の星が現れるのを待ち望んでいました。きっと、聖書の中で、待つことの豊かさを、彼らほど深く味わった人たちはいないと思います。それだけ、彼らのおかれたところ、今で言う「中東」の地域の闇は深かったということです。民族間の分裂と争い、権力者からの搾取、経済的貧富の格差、宗教間の葛藤、人権の乱用、人種差別、性差別、貧しさ、悲しみや孤独・・・。これらの闇からの救いのために、彼らは、毎晩、今日かもしれない、今日こそ!と、救い主に会うためにどれだけ祈ったことでしょうか。

ですから、深い闇の夜空に、救い主のお生まれを知らせる星が現れた際の彼らの喜びは、言葉では言い表すことのできないほど大きなものだったと思うのです。しかし、ここで重要なのは、彼らの渇望はここで終わらなかったということです。

彼らは、自分たちの待望が適えられたことで喜びました。本当にそれは夢のようなことでした。しかし、そこで終わらなかった。いや、ここからこそ本当の旅が始まったのです。彼らは、見て、感じたその喜びを携えて、立ち上がり、ラクダに乗り、救い主がおられるところへと出発しました。つまり、星の導きに自分たちの歩みを委ねて、それまで身を置いていた自分たちの暗闇から立ち上がり、星だけが知っている目的地に向かって、躊躇することなく出発しました。見知らぬ土地に旅立つ冒険です。これこそ体の復活、本来の体を生きる新たな出発です。

この学者たちの姿は、エジプトから民を導き出そうとなさった神さまのお姿に似ています。

イスラエルの民はエジプトで、エジプト人から課せられる重労働に耐え切れず、叫び声をあげました。その声を聞かれた神さまは、モーセに対してこのように述べます。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(出3:7~8)。

神さまは、ご自分の民の苦しみをご自分の目で見て、叫ぶ声をご自分の耳で聞き、その痛みを知ってくださいました。しかし、傍観しておられません。自らエジプトへ降って行こうとしておられます。エジプトへ降って行って、エジプト人の手から民を救い出して、乳と蜜の流れるカナンの地へ導き上るとおっしゃっておられます。そしてモーセを選ばれ共にエジプトに向かわれました。

救い主イエスさまは、この神さまの姿を象って生まれました。つまり、闇の中で苦しむ人を光の中に導くためにお生まれになりました。暗闇の中で苦しむ人を見る神さまの目と、苦しむ人の叫び声を聞く神さまの耳と、その痛みを知っていてくださる神さまの知性をもって生まれました。さらには、苦しむ人々の暗闇の中に躊躇することなく降りてゆくという、神さまのリアリティを生きる方としてお生まれになりました。

そのキリストの道を生きるものをキリスト者と呼びますが、しかし、その道を本当に歩こうとしているのかと私は自問するのです。なぜなら、この道は暗闇から次の暗闇へと進む道だからです。そしてあまりにもその暗闇が深いために、私はできればそこは避けて通りたいと思っています。ですから、その闇の中に救い主という光がおられることを信じる信仰の薄い私のような者は、見て見ぬふりをして、いつも遠回りして逃げてしまいます。

「クォ・ヴァディス」という映画があります。この映画はローマの厳しい迫害のもとに置かれたキリスト者たちの状況を描いています。この映画で、ペトロは、燃えさかるローマから逃れようとして夜道を進みます。そこで彼は、そのローマに向かって歩みを進める人物に出会います。ペトロがその人に、「どこへ行くのか」と尋ねると、その人物は、「あなたが捨ててきたローマへ。わたしはそこでもう一度死のう」と言ってその姿が見えなくなります。その人物が主であったことに気づいたペトロは、道を引き返しローマに行って殉教をするというストーリーです。

私は、献身をして、主の弟子になって、牧師として働いています。忙しすぎるほど一所懸命に働いているつもりです。しかし、その一所懸命さの中に、果たしてキリストはおられるのか。忙しさは危険です。もっともらしい口実によって、本当に大切なことから逃げているのかもしれません。その忙しさの中の中にいる自分から、キリストがおられる肝心なところに足を踏み入れることを躊躇している自分を見ます。

東の方で、待ち望んでいた救い主のお生まれの星の輝きに導かれながら、占星術の学者たちは、立ち上がり、救い主がおられるところへ向かって出発しました。

いただいた喜びにとどまらないで、救い主がおられるところへ出かけて行った彼らは、生まれた救い主が担う苦しみに与ることを選び取った人々です。つまり、体の復活を先取りしたのです。それは未知の道です。そして、進むようにと、主が私たちに示される新たな道でもあるのです。

さて、このキリスト教一致祈祷週間。
教派を超えた世界のキリスト者たちが心を合わせて、一致のための祈りのときを過ごしています。今年は、中東キリスト教協議会のみなさんが、祈りのための準備をしてくださいました。まさに、救い主のお生まれを知らせる星が輝いたところ、夜の闇の深いところ、イランからエジプトまで、分裂と争いが絶えない地域。この中東という地域の非常に厳しい現実の中から、今回すばらしい準備をしてくださったキリスト者たちの貴い働きに応えるために、私たち日本のキリスト者たちはどのような新たな道を進もうとしているのでしょうか。

いったい、私たちは、一致を目指して、どこへ向かっているのでしょうか。

日本の現実は、中東と比べればそれほど切実ではなく、一致のための新たな道、新たな出発への渇望は、日常の忙しさの中で埋もれてしまっていないでしょうか。ベツレヘムまで遠い道のりを、新たに歩み始めるのを諦めていないでしょうか。自分の殻を破るのを躊躇し、慣れた教会、教団、教派内で平穏な信仰生活に満足していたら、いつ私たちは一緒に主の食卓を囲むことができるでしょうか。こんな問いが、中東の兄弟姉妹から私に投げかけられています。

 

教派間の違いを乗り越えて、キリストにあって一致を目指すとき、確実なのは、そこには痛みが伴うということです。しかし、体の復活とは、体の死を通して生まれるのです。大きな痛みが伴います。救い主は、その痛み、人々の深い闇を引き受けて十字架の上で死んでくだいました。死なれたので、復活されたのです。その道こそ、新しく生まれ変わる新たな道であり、学者たちはその道を通って自分たちの国へ帰って行きました。私たちも、死んで復活したその道を通って、新しい歩みを歩み出しましょう。

祈ります。
恵み深い神さまは、2022年という新しい年の始まりに、キリスト教一致祈祷週間を設け、世界各地のキリスト者たちが共に祈り、共に支え、共に生きることを促してくださいます。特に中東のキリスト者たちの働きを祝福し、多くの課題と深い闇の中でも救い主の光に照らされながら、歩み続ける力が与えられますように祈ります。そして私たちも、おかれたところで常に一致を目指し、教会・教団・教派間の葛藤を乗り越えて共に一人の主に仕えることができますようにお導き下さい。

今日、オンラインを通してこの礼拝に与っている一人ひとりと仕えて奉仕するそれぞれの教会の上に主の豊かな交わりがありますように。この場を準備してくださった、YMCA,そして藤沢市内キリスト教連絡会の準備委員たちの労苦を省み、その働きが祝福されますように。すべての人の救い主としてお生まれになった主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。