招き

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ルカによる福音書3章1~6節

招き

これは韓国の昔話です。韓国の田舎のある村に、親孝行で評判の女性がいました。そのことが国の王さまの耳にとどき、王さまは彼女に褒美(ほうび)をあげたいと、人を彼女のところへ遣わします。すると彼女は、「私にはご褒美をいただくようなことをした覚えはありません。しかし、王さまがそうおっしゃるなら、王さま自ら一度私の家をお訪ねください」と答えました。王さまは、彼女の願いを受け入れ、彼女の家を訪ねる旨を知らせます。村は大騒ぎになりました。何しろ、王さまがやって来られるのですから。王さまが通られる田舎の凸凹の道はすべて平らに変えられました。彼女の家に王さまが泊まることになりますから、お家で使うものすべて、布団も食器も何もかも王さまにふさわしいものに変わりました。村全体がきれいに変えられました。もちろん、すべて国が負担して行ったことです。彼女一人が褒美を受けるよりもっと豊かな贈り物を、彼女も村人たちもいただいたのでした。

今日はパプテスマのヨハネの日で、待降節第二主日は毎年彼に思いを寄せるときです。パプテスマのヨハネのことを思う度に、私は、韓国のこの昔話を思い浮かべます。

ヨハネはザカリアとエリザベトの間で生まれますが、物心ついてからは荒れ野で暮らしていました。そして、ヨルダン川沿いで、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を授け、人々の心を神さまに向かわせようとしていました。

今日の福音書の続きの3:15節には、民衆はこのヨハネのことを来るべきメシアではないかと考えていたと記されています。ヨハネは人々から信頼されていたのでしょう。しかし、ヨハネは人々の期待に応えようとはまったく思わず、ひたすら神さまからいただいた召命に立ち続けていたのです。その召命とは、救い主の来られる道を備えるという働きでした。自分の立つべきところがどこなのかを、はっきりと識別していたのです。

昔、イザヤの預言ではこのように述べられていました。「『荒生で叫ぶ声がする。主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに でこぼこの道は平らになり 人は皆 神の救いを見る』」と。

この預言の言葉をヨハネは実践していたのです。どんなに良い働きをしていて、人々から厚い信頼を得ていたとしても、ヨハネにとっては、自分と神さまとの関係が何よりも重要でした。そして、神さまの救いの道を邪魔しないように、定められた自分の立ち位置をわきまえる人でした。それで彼は、ヨルダン川沿いの一帯に住んでいる人たちに光を当てるために、罪の赦しを得させる洗礼へと人々を導く働きに専念していたのです。こうした働きによって、万人の救いのために来られる救い主の道がしっかりと備えられたのです。

先ほどご紹介した韓国の昔話の女性と似ています。彼女が、「~が欲しいです」と王様に伝えてご褒美をいただいたのなら、それは彼女だけのために良かったことになります。ヨハネもそうです。もし自分が人々の期待に応えてメシアのふりをしていたなら、当時の人々には受け入れられたのかもしれませんが、救い主の来られる道が私たちにまでは届くことはかなかったのです。

これは、イエスさまが弟子たちに教えてくださった主の祈りとも似ています。いつか時間を見つけて皆さんと主の祈りを具体的に学びたいと思いますが、イエスさまが弟子たちに教えられた主の祈りは、「~が欲しいですから、それをお与えください」と、自分個人に必要なものを求める祈りではありません。そうではなくて、神さまと隣人との関係の中にみ旨が行われるようにと願う祈りなのです。人間の中の自己中心的な勝手さを良く知っておられるイエスさまは、必要なものは既に与えられていることを信じて、もっと先へ進む祈りの生活を勧めておられたのです。

ヨハネのまっすぐな立ち方は、当時の政治的体制の圧力にも屈しませんでした。本日の福音書には、当時の政治体制が具体的に記されています。皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンテイオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファが大祭司であったときであると。この人たちは、イエスさまの十字架刑に関わる人たちで、私たちの耳にもなじみのある人たちです。ローマとイスラエルの政治と宗教界のトップに立つ人たちが手を結んだ強い暗闇の力が、すべてを支配していた、そういう時代であることを表しています。そのような厳しい状況のただ中で、ヨハネは神さまの赦しと愛の中に人々を招き、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたのです。

つまり、政治や権力の力によって抑圧されている人々を、その暗闇の支配から罪の赦しの中に招き、神さまの愛をその糧として差し出していたのです。こういう働きは、本来、宗教界が担うべきものです。人々の幸いを司り、武力や政治的抑圧から逃れる道を備えるのが宗教の役割なのです。しかし、政治と結託した当時の腐敗した宗教界は、その大切な働きを蔑ろにしていました。むしろ、弱い立場にいる人たちを犠牲にし、経済的に豊かな人や政治的に力のある人の意向に沿うことに力を注いでいたのです。

そういう状況の中で、神さまの愛を暗闇の中にいる人々に告げるということは、危険なことでもありました。ヨルダン川沿いで洗礼を授けている様子は、平和な様子を描いているようで、しかし、緊張感のあふれる、命を差し出しての働きだったのです。今の政治や宗教的状況から救われたいと思ってメシアを憧れていた民衆側にとっては待ち望んでいたことでしたが、ローマ皇帝を神としてあがめることを強いる側に立つ人たちは、人々の信頼を厚く得ているパプテスマのヨハネのことを要注意人物として捉えていたのです。

政治と権力と富が重んじられる世界は闇の世界です。そこへ通じる道は凸凹しています。複雑でまっすぐではありません。その闇の世界に対立しつつ、その闇の下で抑圧されている人々を神の赦しの愛の中に招く人の働きはどんなに素晴らしいでしょう。しかも、待望のメシアかも知れないと人々から思われ、人々に厚い信頼が置かれている中で、メシアは、自分の後から来られる方であると、はっきりと立場を示す透き通った姿はなんと尊いでしょうか。

私たちも、時代は異なりますが、似たような状況の中に置かれています。政治も宗教界もすべて富と手が結ばれていて、何もシンプルではない世界の中にいます。さらには、ウイルスの脅迫のもとに小さくなって暮らしている、そのただ中で、私たちは神さまの愛の招きを受けています。恐れることはない、光の中に歩み出て、罪の赦しの洗礼に預かりなさい。つまり、慈しみ深い神さまの愛に心を開き、それによってあなたの魂を養いなさいと。その招きに私たちはどのように応えているのでしょうか。私たちの中の凸凹した道が平らになるようにと、神さまは今日もパプテスマのヨハネの姿を通してはっきりと示してくださったのです。

神の愛への招きを受けて神さまにもてなされている私たちには、委ねられている大切な働きがあります。暗闇の中で恐れと不安の中にいる隣人をもてなすという奉仕です。その奉仕が実践されるところで、救い主を送ってくださる神さまのみ名が尊ばれ、御国が私たちの間に実現するのです。神さまの愛の招きともてなしの中で、罪の赦しという究極的な救いの業がなされるのです。

今日は待降節第2主日です。二本目の蝋燭が灯されました。暗闇の中を歩く人々の道がもう少し明るく照らされました。来られる救い主の道が備えられました。私たちの心の道にも、招かれた人が迷わずに来て私たちのもてなしを受けられるように、愛の灯りが照らされました。尊い招きを受けた者として隣人をもてなすために、隣人のもとへ遣わされてゆきましょう。

希望の源でおられる神が、信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。