神の可能性

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マルコによる福音書10章17~31節

神の可能性

温暖化のために、秋なのに夏の暑さがまだ残っています。しかし、そんな中でも木々の葉っぱは彩ってきて山々がきれいに染まり始めました。そういう美しさもあっという間に終わり、寒い冬がやってきます。自然界は厳しく、冷たい風が吹き出すと、木は葉っぱを落としてすっかり裸になります。

こうした自然界の厳しい姿は、もちろん、春に新しい芽を出すために、余分な栄養を取られないようにする懸命な生き方です。しかし最近知ったことですが、秋の美しい彩りが本来の葉っぱの色だそうです。春に新芽が出て、間もなく強い太陽によって葉は深い緑に変わるのであって、秋になって気温が落ち着いてくると、本来の自分の色を出して美しさを現すのだそうです。

この話を聞いてはっとさせられました。そして、人間もまったく同じだと思いました。本来の自分にならない限り、命あるものは、美しい姿を現すことができないということです。次の始まりを生きるために、ふさわしい時に、思い切って不要なものをすべて手放さなければならない。その思い切ったことができる時、そしてもっとも美しい姿を現わすそのときが、本来の自分に戻ったときであるということです。

木々はこの秋、春になったら新芽を出して新しい始まりを生きるために、今要らないものを捨てる作業を始めました。その繰り返しの中で、木々は、自分自身を生きています。私たちにとってその時はいつなのでしょうか。次の始まりを生きるために、厳しいけれども、懸命に要らないものを識別して手放す作業をするとき、そのときはきっと大きな力が発揮されるときなのでしょう。

先週の後半の聖書日課はヘブル人への手紙が選ばれていて、そこでは、詩編95編が何度も引用されています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(詩編95:7-8)と。詩編は、私たちが悔い改めて新しく変えられるときが「今日」だと教えています。そうなのです。今日が、今が、次の始まりを生きるときなのです。今日、ここが、次の始まりを生きるための最高のとき、本来の自分自身になるときです。

さて、イエスさまが旅に出ようとされたとき、ある人が走り寄ってきました。そして、直ちにイエスさまに聞きます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」(17節)と。その質問を受けて、イエスさまは守るべき律法についてこの人とやり取りを始めます。その対話をとおして、イエスさまの中にこの人への大きな慈しみが湧き上がりました。律法はしっかり守っていたものの、生きるための術をすべてお金に置いているこの資本家の姿に、イエスさまは深い慈しみを抱かれたのです。そこで、イエスさまは彼に勧めます。「あなたに欠けていることが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)と。しかし、彼はイエスさまのこの言葉に気を落とし、悲しみながらイエスさまから立ち去りました。なぜなら、もっている財産があまりにも多かったからです(22節)。

イエスさまは、立ち去った金持ちのことが残念で、弟子たちにこのようにおっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」(23節)、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)と。

果たして、悲しみながら立ち去った人は、どうやって救われるのでしょうか。きっと勇気を出してイエスさまに会いに来たはずです。いくらお金があっても満たされない内側の深いところの孤独を癒されようと訪れていたイエスさまのところを、彼は去ってしまいました。私は、この金持ちのとても残念な姿から自分を見ます。イエスさまに正しいことを勧められても、空っぽになってしまうことを恐れ、そのお言葉に従えない私の救いはどこにあるのでしょう。

多くのものを所有することによって、私たちはどれだけ不安になったり、恐れたり、苦しんだりしていることでしょうか。その財産に縛られ、財産のために生きようとするそこから不安と恐れと苦しみが生じます。それをイエスさまはご存知です。ですから、「財産のある者が神の国に入るのは難しい」、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいましたが、傍で見ていた弟子たちはますます驚いて互いに言い始めます。「それでは、だれが救われるだろうか」(28節)と。イエスさまと一緒にいて同じ道を歩いている弟子たちの中にも、何か守るべきものがあったのでしょうか。その心に不安と恐れがあります。その彼らに向かってイエスさまははっきりおっしゃいました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)と。

人間にはできないが、神にはできる、という神さまの可能性の宣言です。しかし、どのようにして神さまはその可能性を私たちに見せてくださるのでしょうか。だって、私たちの愛する者が病んでいた時、その病は直りませんでした。死を迎えたとき、奇跡は起きませんでした。コロナに襲われて過ごした不安と恐れの中のこの2年間に、実に多くの人が命を落とし、職を失いました。私自身の辛い病、老いて弱っていく日々の生活、常にうまくいかない人間関係、疑いと不信に振り回される私の信仰・・・。いったいどこに、イエスさまが宣言なさった神の無限な可能性を見ることができるというのでしょうか。

オーストリアのユダヤ人精神科医であり、ナチスの強制収容所で生き残ったヴィクトール・フランクルが著した「夜と霧」という本があります。その中にこんな話があります。ある一人の若い女性との対話です。彼女は、数日後にはガス室に連れて行かれることを知っていて、しかし淡々と生きています。彼女は言います。「以前、何も不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどういうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」と。そして、彼女は、それから数日の間、内面性をどんどん深めていく中で、窓の外にあるマロニエの木を見ながら、毎日あの木と対話をしているのだと言うのです。どんな会話をしていますかと聞くと、木はこう言うのだそうです。「ここにいるよ、ここに、わたしはここにいる。わたしは命、永遠の命…」。

以前、すべて不自由なく暮らしていたとき、つまり、富の中を生きていたときには、命というものにぼけていた。富を奪われ、すべてを奪われて、残された時間が僅かな時の中で、自分の内面を見つめるようになった。そのとき自分の中にある、与えられていた命に気づき始めた。永遠の命は、大昔から、生まれた時から、実は自分の中にあったのだと。

そうなのです。永遠の命は私自身の中に、大昔からあったのです。ですから、私たちは、神の無限の可能性をもう生きているのです。とても辛かったあのときこのとき、私の中に実は無限の命が宿って私を支えていたのです。本当はとっくに死んでいたのかもしれないあのとき、打ちのめされ絶望的であったあのとき、私の内におられた方の力によって私は生かされたのです。そして、今はこうして神の食卓にまで招かれています。そのようにして、何でも可能である神を証しする者とされました。

本日選ばれている詩編も「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と歌っています。新しい聖書では、「残りの日々を数えるすべを教え 知恵ある心を私たちに与えてください」と訳されています。

残りの日々を数えるすべ、知恵ある心、それは、私の内におられる無限の可能性をもっておられる神が、今、ここで、私をとおして、ご自分を現そうとしておられることに気づく賢明な心のこと。その気づきの中で、私たちは、今、自分が、らくだが針の穴を通るような奇跡の中を生きている、神の業(わざ)の中にいる、その自分に出会うことでしょう。そして、この秋にきれいに彩る山々の木々のように、その自分が、本当に若くて美しく、内なる力が溢れ出ていることに、喜ばずにはいられないことでしょう。

さあ、私の中に宿る無限の命に抱かれながら恐れを捨てて、神さまが委ねてくださった富を天に積む歩みへと導かれてゆきましょう。