出会いサイト

Home » 出会いサイト
20211003_055156167_iOS

聖霊降臨後第19主日    

マルコによる福音書10章2~16節

出会いサイト

「黒い髪がネギの根になるまで愛し合いながら生きる」という韓国の言葉があります。この言葉は結婚式の時に使われる言葉ですが、新しく結ばれた二人が、どんなことがあっても白髪になるまで互いを尊び愛し合って生きるようにという意味の言葉です。しかし最近、離婚率が上がってきて、この言葉の色も失せてきました。

さらには、結婚に対するあこがれや必然性も薄くなりました。逆に家族・家庭という単位の社会の形が段々弱くなってきて、個人という単位で生きるという傾向が強くなってきたと思います。これは、個人の自由を尊重しているように見えますが、人と人とのつながりを難しくしている面もあります。同じ家にすんでいても、または同じスペースで仕事をしていても、心をわって話ができるほどのつながりをつくるのが難しい社会になっているのだと思います。

神さまは、人が一人でいるのは良くないと思われました

本日の第一朗読の創世記には、神さまに造られた二人の人間が結び合わされる記事が記されています。

神さまは人を造り、その人に仕事を与えられました。それは、自分以外の造られたものすべてに名前を付けるという仕事です。人は、自分の前に連れて来られたものに名前を付け、呼びました。するとそれがそれらの名前になりました。しかし、人はその仕事を続けているうちに、自分に相応しい相手がいないことに気づきます。「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に会う助ける者は見つけることができなかった」(創2:20)と記しています。

その人の思いに神さまは気づかれます。そして、「人が独りでいるのは良くない」と思い、人を深い眠りに落とされ、その人のあばら骨を抜き取ってもう一人の人を造られます。そして、神さまはその人を最初に造った人のところに連れてきて、素敵な出会いを誕生させてくださいました。そのとき、人は言います。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と。この言葉は、孤独から救われた人の歓喜に満ちた告白です。先の韓国語に照らし合わせるならば、「この人こそ、私の黒い髪がネギの根になるまで一緒に生きる人」と言ったことになります。

この二人の出会いには、私たちが見逃してはならない大切なことがあります。二人が結ばれるとき、主なる神ご自身がパートナーを連れて来られたということです。自分では他の被造物と何のつながりも見つけることのできなかった人に、つまり、すべての被造物から孤立して孤独のただ中に立ち尽くすしかない人のために、神さまが人と人の仲介人として立ち、出会いの場を備えておられるということです。

聖書が示す結婚理解がここにあります。独りでいることを決して許さず、人はつながって共に生きる存在であり、その出会いは神さまによって果たされるということ。イエスさまはこの理解を大切にしておられました。

しかし、イエスさまの時代、ユダヤ人の間では身勝手な離婚が安易に行われていました。それは、そもそも結婚に対する理解が間違っていたからと思います。つまり、結婚した妻のことを、パートナーとして考えていなかったのはもちろん、その結び合いが神さまによって果たされたというような理解もありません。妻は男性の所有物として考えられていました。ですから、女性には何の決定権もありませんでした。男性の都合によってすべてが決められ、女性の意志に関係なく、男性が規定に定められている離縁状を出せば、いつでも離婚は成立されました。

今日イエスさまの前にいるファリサイ派の人たちは、そういう状況を平気で受け入れていたのでしょう。彼らはイエスさまに、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と聞きます。それは、イエスを試すためだったと記されています。しかし、イエスさまははっきりと答えられます。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。

イエスさまがなさったこのお返事は、結婚に限るものではないと思います。私たちは、小さいころから死ぬまで、たくさんの出会いの中で生きています。思いも寄らない大切な出会いもあれば、あまり会いたくなかった人との出会いもあります。または、人だけではない、物や場所、ペットや趣味、仕事・・・数え切れないほどの出会いの中で生きています。望んでも望まなくても、その出会いが私たちを自分らしくしてくれているのです。つまり、独りにならないように、孤立して孤独の中に陥ってしまわないように、神さまは私たちにいろいろな出会いを備えてくださいました。その出会いの中に介入しておられる神さまに、私たちは気づいているのでしょうか。私たち自身の生まれから始めて、すべての出会いは、与えられたものであるということに、私たちは気づいているのでしょうか。

すべてを越えて、世界のありとあらゆるものの中に存在して、これらの出会いを果たしてくださるその神は、私という、本当にちっぽけなものにまで御心を注ぎながら共におられる、その姿に私たちは気づかないのです。なぜなら、その神はあまりにも謙遜で、小さく、自ら「私が神だ」とおっしゃって御姿を現すような方ではないからです。つまり、私たち自身は、神より偉く、自己絶対化の中に自分を置いているので、低いところにおられる神さまの存在に気づくことができないのです。

それは、私たちが、何かの利益を生み出す生き方をしなければ生きる意味がなく、出会いも、利益を生み出すような出会いでなければ、あまり大切にしない、そのようなこの社会、この世の生き方に慣れてしまったからです。神さまは、私たちが何かが出来なくても、もう年を取って思うように体が動かなくても、変わらず私たちのことを大切にし、尊び、愛してくださっています。

一方、私たちは、大自然に対してさえも、どれだけ身勝手な搾取をして来たことでしょうか。神さまが、この大地を耕して管理するようにと委ねてくださった世界を、人間は自己目的のために利用してきました。その結果、コロナウイルスと共に生きる世界をもたらすようになりました。

こうした現代を生きる私たちにとって、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃるイエスさまの言葉はどう響くのでしょうか。

本日の福音の日課として選ばれている中には、子どもたちのこともありました。人々がイエスさまに触れていただこうと思って子どもたちを連れてきましたが、弟子たちは人々を叱ります。その弟子たちの振る舞いにイエスさまは憤られ、このようにおっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(13~15節)と。

どうしてこの子どもの記事が離婚問題の記事の後に置かれているのでしょうか。

そして、本日選ばれている詩編の中にも幼児たちのことが記されていました。

「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」(詩8:2~3)と、歌っています。

子どもは損得関係を築くことができません。自分の前にいる大人に信頼をおいて、すべてを委ねます。裸であっても恥ずかしさを知らず、お腹が空いて、人のものを盗んで食べるようなことも知りません。

子どもは、神の国を現す者、純粋に、何の疑いもなく神さまの威光を称えられる者、神さまがどんなに低く降って小さくされても、子どもの目には見える、それゆえ、子どもは大きな力をもっています。

つまりそれは、子どもだけがこの世に臨む神の国とこの世をつなぐ力をもっているということです。

その子どもを真ん中にして生きるときに、私たちは、私たちの出会いに介入しておられる神の存在に気づき、平和な関係を築き上げることができるということです。

その子どもとは誰のことでしょうか。それは、私たちの中にもあるようで見つかりにくく、まっすぐに現わせたらいいと思うけれども素直に表せない存在。かつての自分のようで、歳をとって行けばいくほど懐かしい存在。常に私たちに新しさを気づかせ、新し命に満ちた世界へ導くイエスさまのことではないでしょうか。

この方を真ん中にするということ。そのときにのみ私たちの中の身勝手さと純粋さが一つになり、利害関係で結ばれるこの世とすべてを分かち合う神の国を同時に生きる者としての歩みが続けられ、死を超えて新しい命によってい結ばれる出会いの神聖さに感謝できるのではないでしょうか。

どうしてもこうしたい、ああしたいと固く握りしめている手を開いて、真の出会いを果たしてくださる神さまに委ねてみましょう。素敵な出会いがあるかもしれません。神さまが仲人として立ってくだされば、きっとかけがえのない、大切な出会いが果たされるかもしれません。