新しく生まれなければ!

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     三位一体主日

ヨハネによる福音書3章1~17節

新たに生まれなければ!

昨日は風の音がよく聞こえる一日でした。その音は声のように聞こえて、何か話しかけているようでした。いったいその声はどこから来てどこへ行くのだろうと思いつつ、五旬祭の日に一つに集まって祈っていた弟子たちのところに吹いた風のことを思い出しました。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使2:2)。

大きな音を立てた風は弟子たちに聖霊をもたらしました。いいえ、風そのものが聖霊だったのです。神の息吹、聖霊が激しい勢いで人々に注がれ、そのとき人は理性ではなく、律法の解釈でもなく、ただまっすぐに聖霊の語りかけを聞き、聖霊が語らせるまま、集まっていた人たちに福音を語り出しました。

今日の福音書の中でも、イエスさまは風のことを話しておられます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と。

風がどこから来てどこへ行くかを知らないように、霊から生まれた者もどこから来てどこへ行くかを知らないのだとおっしゃっておられます。つまり、新しく生まれるということは、どこから来てどこへ行くかを知ることではないのだと。つまり、今だけが永遠という神の時なのです。聖霊は、いつでも「この今」にとどまり、その今を精一杯生きるようにと招きます。

しかし、わたしたちはこの大切な「今」をすぐ忘れていまいます。

19世紀に入って、キリスト教界では、神学の研究がますます細分化しました。神についての神論、イエス・キリストについてのキリスト論、聖霊論、三位一体論、聖餐論、教会論・・・そして今でも、多くの神学者たちが新しい研究を続けています。知的探求は限りがありません。

しかし、私たちが知らなければならないことは、どんなに新しく深い研究や論文であっても、そしてそれがどんなに私たちの知性の助けとなったとしても、それはあくまでも理性と知識の世界であって、風の世界ではありません。つまり、聖霊が示す「今」という新しい命、永遠のいのちの世界ではないということです。

そして今日は三位一体主日です。

三位一体の神学は、父なる神と子なる神と聖霊なる神の三つの位格の働きを明らかに表そうとします。つまり、父と子と聖霊が三つの異なる位格をもっているけれども一つの働きをするということです。そのことを覚える主日が年に一度定められていて今日の三位一体主日です。

そして、三位一体主日に相応しい個所として、先ほど拝読されたヨハネ福音書3章が選ばれています。そこにはニコデモとイエスさまの会話が記されています。

ニコデモは、ユダヤ人の議員でファリサイ派に属していて律法を研究する人でした。彼は律法の研究家でしたが、心に渇きを覚えていました。ある夜、イエスさまのところを訪ねます。「ある夜」と記されています。他の議員たちの目を意識していたのでしょう。そしてイエスさまとこのような会話をしています。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。するとイエスさまは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えます。ニコデモはさらに聞きます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。するとイエスさまは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(2~7節)と答えられました。

ニコデモとイエスさまの会話には、大きな隔たりがあります。ニコデモは律法の研究家であるだけ、理性をフルに働かせてイエスさまに問いかけます。彼には、「新しく生まれる」ということが理解できません。そこでニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と尋ねます。そうするとイエスさまはこのように嘆かれます。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか、わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」と。

この夜、ニコデモは、複雑な思いで帰って行ったのではないでしょうか。

そして、このイエスさまの嘆きは、同時に私たちへの嘆きかもしれません。イエスさまがお話しになり、証しなさっておられることの意味が分からない私がここにいるのです。

なぜ分からないのでしょうか。それは自分の取り組むべき本当の課題から目をそらしているからかもしれません。目をそらして、天の上の神さまにその超越的な力によって救ってもらおうとしているのです。つまり、イエスさまを抜きにして、わたしが直接神さまを動かそうとしているのです。

それは、主の弟子たちの中でヤコブとヨハネが見せた姿と同じです。ルカ福音書の9章54節でヤコブとヨハネは、自分たちを快く歓迎してくれないサマリアの村に対して、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と提案をしました。イエスさまから叱られることで二人の申し出は打ち消されますが、これが私たちの信仰の現実なのです。つまり、十字架のイエス・キリストなしに、直接神にお願いして、自分の欲求や思いを実現させようとするのです。イエスさまと歩むということは、聖霊に導かれながら、自分の課題に正面から取り組み、自分の欲求や思いを乗り越えてゆくことです。

イエスさまは、ニコデモを前にして、「新しく生まれなければ!」という新しい道を示しておられます。それは、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)のと同じことであると。

つまり、今、ここに、あなたの前にいるイエスに集中しなさいということ。イエス・キリストがおられるここにのみ新しさがあり、イエスを通してのみ私たちは新しく生まれ、神の国への道を辿ることができると。イエスだけが道であると。

ニコデモは、この夜は複雑な思いで帰りましたが、その後、新しく生まれ変わります。十字架の道をイエスさまと一緒に歩むのです。

ヨハネ福音書の7章では、議員たちがイエスさまを訴えようとしたときに、彼はイエスさまを弁護します。もはや彼は、夜を選んで秘かにイエスを訪ねるような人ではありません。

また、19章で、ニコデモは、イエスさまのご遺体を引き取り、準備してきた香料をご遺体に塗り、お墓に納めます。

彼が登場する場面では、「ある夜イエスのもとに来たことのあるニコデモ」というレッテルがはられています。しかし、ニコデモはあの夜のイエスさまとの出会いを通して道を見出したのです。新しく生まれ変わって神の国に入る道を見つけたのでした。古い歩み方が新しい道に移ってゆく姿はとても静かで、謙虚です。

三位一体主日。風のように行方を知らずに吹いてくる聖霊の働きの中でのみ、私たちは、十字架のイエス・キリストを明確に知ることができます。十字架のイエス・キリストを知ることなしに、信仰を維持することはできません。なぜなら、十字架のイエス・キリストのみが神を指し示すことができるからです。

十字架のイエス・キリストが示される神は、ばらばらになっていく私を一つに集めます。コロナのことやワクチンのことで不安になり、心があちらからの情報やこちらからの情報に散ってゆく者を、今、ここという尊い時の中に保ってくださいます。そのために命を捧げなければならないことがあっても、惜しむことなく守ります。十字架のイエス・キリストはその神の姿を示され、模範となるために今週も私たちの先頭に立って歩かれます。どうか、ニコデモのように、静かに、イエス・キリストの十字架の道に移って歩む一週間でありますように祈ります。

父と子と聖霊の祝福が皆さんと共にありますように。アーメン。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/WCzStLukZ7Q