ぶどうの木の剪定、道具はみ言葉

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           復活節第5主日

ヨハネ15:1~8、使徒8:26~40

ぶどうの木の剪定、道具はみ言葉

皆さんは、プロの植木屋さんが庭の木の剪定をする様子を見たことがありますか。そんなに切ってしまってもいいの?と思うくらい、植木屋さんは思い切り枝を切ってしまいます。けれども、次の年、その木こそ立派に成長し、多くの実を結ぶのです。

今日の福音書の初めには、その植木屋、剪定士のことがこのように述べられています。

「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2節)。

「手入れをなさる」と記されている言葉は、ギリシャ語ではカタイレイという単語で、直訳すると「剪定する」という意味です。ぶどう園の農夫が、ぶどうの木の要らない枝を識別して取り除き、豊かな実を結ぶように手入れをするということです。不要なものを切り取って、風通しを良くしておけば、虫もつかなくなるし、太陽の栄養も枝全体に、均等に行き渡るようになります。豊かな実りは、このような手入れを通してもたらされるのです。

ぶどうの木の枝の手入れをする剪定士は、イエスさまが父と呼ばれる神さまです。そして、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とおっしゃっておられます。つまり、私たち一人一人が枝として手入れされるのです。神さまが、私たち一人一人の心と魂の隅々にまで栄養満杯の愛が均等に行き渡るように手入れをなさってくださるということです。

しかし、手入れがいいことであっても、そこにはリスクが伴います。どんなに要らないと言われても、剪定されること、切られることには痛みが伴います。それを受け入れるということは冒険です。逃げ出したくなるほど、辛いことです。剪定されるということは、目を向けたくない嫌な私と真正面から向かい合わされることです。ですから、忍耐が求められ、委ねることが必要になってきます。  つまり、信仰のメンテナンスのためには、それを受け入れる決断が私たち一人一人に求められます。

そんな私たちをイエスさまは優しく、慰めの言葉をこのように述べてくださっています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)と。

つまり、あなたは一人ではない、一人で自分の弱さと向かい合うのではない。わたしイエスがあなたの弱さの中にいる。なぜなら、あなたは、自分一人の力だけでは、枝として成長できないからだ。あなたの中にはとてつもなく豊かな宝が潜んでいる、それを掘り起こすためにわたしが協力する、支える、一緒に痛みを担う、そのために「わたしがあなたがたにつながっている」とおっしゃっておられるのです。

そのとてつもない豊かな宝、それを掘り起こすということは、具体的に何を意味するのだろう。きっと、その意味を、私たちは剪定を受けたものとしてイエスさまにつながることによって知らされてゆくのではないでしょうか。イエスさまにつながっていれば、確実にイエスさまが愛されたように他者を愛する方法を学びますから、そこで宝掘りは始まるのでしょう。

今日の第一朗読に選ばれている使徒言行録の中で、エチオピアの女王の全財産を管理している宦官が、フィリポから洗礼を受けています。宦官はエルサレムに礼拝に来て帰る途上、馬車に乗ってイザヤの預言を読んでいました。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」。イザヤ書53章の言葉でした。

しかし、エチオピアの宦官はこの預言の言葉の意味がわかりませんでした。それでフィリポに尋ね、フィリポは答えます。それはイエスについての預言である、と。さらにはイエスの福音についても宦官に告げ知らせます。すると、宦官はすぐ洗礼を受ける決心をします。早速、二人は水のあるところに来ると、宦官はフィリポから洗礼を受けました。それで宦官は、イエスというぶどうの木につながりました。ぶどうの木の枝となったのです。

宦官は、イエスの愛に触れたのです。いいえ、イエスさまご自身がつながってくださっている、神さまの側から一方的に注いでくださっている深い恵みに気づいたのでした。罪のない方が、罪ある者のように訴えられても、黙々と人の罪を背負って十字架の道を歩かれる姿、愛する神の姿に宦官の魂は目覚めたのでした。

しかし、その気づきに至るまで、自分一人の努力によって出来たものではありません。フィリポとの出会いとみ霊の働きが必要でした。主のみ使いがフィリポに現れて宦官を追うように促します。み使いから遣わされたフィリポは宦官に出会い、馬車の上でみ言葉の解き証とイエスの福音を述べ伝えています。

このような協力関係の中で宦官は洗礼を受けるまでに至りますが、宦官が進んでいたその道は、「寂しい道」であると聖書は記しています。

「寂しい道」、ただの道の名前とは思えない、宦官が置かれている心と魂の状態を表している言葉ではないかと思います。聖地と呼ばれるエルサレムまで来て礼拝に参加して帰ってゆく道なのに、そこは寂しい道であるというのです。宦官は礼拝に出ても満たされない思いの中で帰りの道を辿っていたのでしょうか。何はともあれ、そこへフィリポは派遣されたのです。

一人の人がイエス・キリストに結びつながり、本当の愛について学ぶためには、み言葉とみ霊、そして体をもって遣わされる人がいて、みんなが協力して助けていることがわかります。

私たちは、一人では何も出来ないほど弱い存在です。息をすることすら自然界の助けがなければできません。信仰を養うためには、人の助けとみ言葉とみ霊の働きに自分を委ねることが必要です。そのとき、一人ぼっちの寂しい道から、私たちは、みんなとつながる豊かな道へ導かれます。エチオピアの宦官が洗礼へと導かれる出来事を通して私たちはその協力関係を知ることができます。

つまり、エチオピアの宦官は、神さまからの手入れを受け入れました。要らない枝が剪定され、風通しも良くなり、栄養もバランスよくたっぷりいただきました。み霊がイザヤの預言の言葉を通して宦官を捉えたのです。宦官は、黙想していたみ言葉を通して働くみ霊の働きを受け、イエスの愛を学びました。豊かに実る道へ導かれたのです。

み言葉を通して働くみ霊の働き、そのために遣わされている聖なる使徒たちの協力のもとでこそ、人の中にあって実りを邪魔している要らない枝はことごとく取り除かれるのです。

しかし、そこでとても大切なことは、み言葉を通して働くみ霊の働きと、僕として遣わされている使徒の働きを受け入れるのは、私であるということです。私の意志、私の決断、それなしには神さまがどんなに力強く、私の要らないところをご存知であっても、私の内面へ無断侵入することはありえないということです。私の受諾があって、私の意志と周りの協力と神さまの手入れの働きがあって、私たちはイエスの木につながって愛する方法を学ぶのです。

さて、今、私たちは、要らない枝の剪定の痛みを恐れて、自分が握っているものに執着し、寂しい道に留まっていないでしょうか。

いちばん近くにみ言葉があっても、生活の中の習慣化されていないために黙想することもなく、テレビやインターネットや新聞の情報に自分を委ねてしまったりしているなら、常に寂しい道に留まっていることになります。

そうではなく、朝、夕、み言葉と交わる時間を作るのです。み言葉と親しむ日々の中に導きは生まれてきます。なぜなら、み言葉は必ずみ霊を伴い、私たちの思いを遥かに越えて働くからです。そのとき、私たちは、そのみ霊によって心と魂のメンテナンスを受ける冒険に出かけるのです。そこから、フィリポのようにみ霊に促されて、寂しい道にいる人のために、恐れることなく、イエスの愛を実践するために出かけてゆくようになるのです。これ以上の実りがあるでしょうか。私たちにとって今週がそういう一週間でありますように祈ります。

望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを喜びに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

ユーチューブはこちらから ⇒  https://youtu.be/DBvtdERw0_g