パッション Passion

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鵠沼教会ニュース3月

巻頭言

最近『アダム』という本を読みました(H.ナウエン著)。そこには要約すると以下のように記されていました。「『受難』を意味するPassionという語は、「受ける、苦しむ」を意味するラテン語Patiorからの派生し、『受動的』の意味のPassiveという語と関係がある。イエスの受難は、イエスの多くの行動の後にやって来た。三年間にわたって、イエスは村々町々を巡り歩き、説教し、神人々の問いに答え、病人を癒し、偽善者と対決し、悲しむものを慰め、死者を蘇らせた。どこでも人々が大勢集まり、彼を称賛し、彼に耳を傾け、彼の助けを求めた。弟子たちはその教えを受け入れ、どこへでも従って行った。しかし、ゲッセマネでこの行動すべてに終止符が打たれた。それがイエスの受難の始まりであった。その時から彼はもはや何もすることができなかった。それどころか、あらゆること彼に対してなされたのであった。逮捕され、牢に入れられ、権力者の前に引いて行かれ、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架を運ばされ、衣をはぎ取られ、十字架の上に釘打たれ、死ぬまで嘲笑された。彼はもはや行動できなかった。彼はただ他者の行動の対象でしかなかった。それは純粋な受動(パッション)であった。」

私はこの記述に深く教えられました。

これがイエスさまの公生涯の神秘です。イエスさまが主導的になさったことより、他者から受けたことにおいてイエスさまの使命は果たされたということ。イエスさまの決断ではなく、イエスさまに対してなされた他者の決断によって神さまからの使命が成し遂げられたのでした。

十字架の道を歩むということの意味が、このイエス・キリストの公生涯の神秘の中に示されています。自己主張でもなければ、神さまと隣人のためにした行いによってでもなく、むしろ、他者によって示された道に自分を委ね、その歩みへ導かれるということ。それは、置かれた場で余儀なく味わう苦しみや悲しみ、不自由さ、さらには相手の重荷が背負わされ、自分のものを奪い取られるような状況かもしれません。しかし、復活の朝、永遠の命の始まりは、そのパッションの道を通してもたらされるのです。さあ、その復活の朝を待ち望みながら、この四旬節を歩んでいきましょう。

 

今月のジョーク

ある人が神に尋ねました。「神さま、百万年というのはどのくらいの長さですか。」神が答えました。「私には1分ほどだ。」「それでは神さま、一億円はどのくらいの額ですか。」「私にとっては1円ほどだ。」「神さま、それではその1円をくださいますか。」「分かった。1分待ちなさい。」

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四旬節の映画紹介

〖ショコラChocolat〗

監督:ラッセ・ハルストレム

出演:ジュリエット・ビノシュ、ヴィックトワール・ティヴィソル、ジョニー・デップ、ほか。

古くからの伝統が根付くフランスの小さな村に、ある日謎めいた母娘がやって来てチョコレート・ショップを開店します。厳格なこの村には合わないチョコレードでしたが、母ヴィアンヌの客の好みにあったチョコを見分ける魔法のような力で、村の人たちはチョコの虜になってしまいます。やがて村の雰囲気も明るく開放的になって行くのですが、“甘い”のひとことで片づけるにはあまりにも奥深い映画です。人間にとって宗教とは何か。癒しとは何か。生きるとは何かが良く語られている映画です。

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