顕現後第5主日 説教

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マルコによる福音書1章29~39節

起き上がって仕えよう

先週の火曜日は幼稚園で節分の行事が行われ、その声が牧師館にまで聞こえてきて嬉しいでした。「鬼は外! 福はうち!」と言って、豆をまいて鬼を退治する子どもたちのかわいい声が聞こえたのです。それは、怖い鬼を追い出そうとしているよりは、「みんなが幸せに過ごせますように」というふうに聞こえる、温かい声でした。そして子どもたちの声は、きっと、鬼も、あの可愛い声を聞いて、出て行かざるを得ないと思えるような、確信のある声でした。

2021年を迎えて、もう2月になりました。二十四節気の一つの立春が終わり、18日(木)には雨水(うすい)が来ます。雨水とは、今まで降った雪や氷が、暖かい気運によって溶けて水分となり、雨となって降ってくる季節になったことを表しているそうです。

この雨で土の中で、じっとしていた根っこや種が動き出し、芽を出して花を咲かせ、枝を伸ばして緑を豊かにして実りをもたらすようになります。特に、今年は、日本海の方や北海道では雪が多かったのですが、早く雪が溶けて、雨となり、人々の暮らしが楽になることを願います。

昔の人たちは、一年をこのように二十四の季節に分けて、どんな環境の中でも、もうこれで終わりではない、すぐ新しい季節がやってくるという希望を大切にしながら生きていたことでしょう。今は二十四節気を数える人は少なくなりましたが、その節目を大事にしていきたいものです。それがまた今を無駄にしないで、大事な時として生きる知恵につながると思います。

さて、イエスさまご一行は、カファルナウム教会での礼拝が終わってすぐシモン・ペトロとアンデレの家に行きました。そこには、シモン・ペトロの姑が熱を出して寝込んでいました。人々がイエスさまにそのことを伝えると、イエスさまは彼女の熱を下げ、病気を癒してくださいました。すると、彼女はすぐ起き上がって一同をもてなしたと、新共同訳聖書は記しています。

ここで使われている「もてなす」という動詞は、原語では「ディアコニア」という言葉で、他の多くの個所では「仕える」というように訳されていますが、ここでだけ「もてなす」と訳しています。新しく出た聖書協会共同訳には、「仕える」というふうに訳されています。

熱を出して寝込んでいた人が、イエスさまに癒していただいてすぐ起き上がって仕える者になってゆく。それを「もてなす」と訳してしまうと、大きな違いがあります。今までは、もてなすと訳したために、彼女は起き上がってご一同のために食事の世話をしたという解釈がなされてきました。しかし、「一同に仕えた」とは、彼女もイエスに従う弟子の一人としての働きをしていることになります。女性だからということで、偏見的な視点から言葉を当てはめるのは良くないと思います。

熱を出していた人がイエスさまに癒していただいて、すぐ起き上がって仕える者になったということ。このことは、彼女は熱を出したことによって、イエス・キリストに出会ったということになります。熱を癒していただいただけでなく、彼女は、イエスさまと全人的な出会いを果たしているのです。イエス・キリストを知らなかった人が、イエス・キリストを知り、その内面が全て知られるようになる出会いです。熱を出すことは病気ですから、いいことではありませんが、それを通して彼女の人生が新しく変えられました。

このように、人は、どんなことがきっかけになってイエス・キリストに出会い、神の国のために奉仕する人に変わっていくか、わたしたちにはわかりません。そしてそれは、わたしたちから見て、とんでもない、絶望的だ、もうだめだと思うようなことのただ中で人は神さまに出会い、さらには、その人の人生の方向が百八十度変えられていきます。

しかし、大切なことは、彼女が熱を出して寝込んでいることを心配して祈る人たちが周りにいるということです。つまり、一人で寝込んでいるのではない。それは、彼女がどのようにそれまで人々と生きてきたのかを表しています。その人たちが、イエスさまに彼女の病気のことを伝え、イエスさまと彼女との出会いを可能にしたのです。その人たちは、姑のことをとても心配している近所の人たちのようです。

この人たちのことを、聖書はさりげなく書いていますが、姑にとってこの人たちは誰で、どんな関係にある人たちでしょうか。姑が熱を出しているなら、人々は先ずは義理の息子のシモン・ペトロにそのことを伝えてもいいと思うのですが、この近所の人々はまずイエスさまにそのことを伝えました。

この村の中で、この姑は大切な存在だったかもしれない、人々はその大切さを知っているゆえに、他でもなくイエスさまに訴えているのかもしれません。人々の思いをイエスさまは受け止め、彼女を癒され、さらに仕える者として、神の国の働きを担う一員として起き上がらせたのでした。

彼女は、日常の中で仕える人として召されました。ペトロやヤコブのように、人間を取る漁師にしようと言われて召され、家族や家を後にしてイエスさまの後についていくような弟子の姿もあれば、今いるところ、家庭の中で、村の共同体の中で、仕事場で、何らかのグループの中で、キリスト者として仕える働きに遣わされる弟子像もあります。家族や共同体や仕事場の仲間たちが、神の言葉によって生かされ、心が豊かになって行くようなかかわり方をする働きです。

この召しに、私たち一人一人も招かれています。今、置かれている状況のまま、歳をとっていても若くても、社会の中で仕事をしていても家の中にいても、病に伏しているとしても、わたしたち一人一人は、シモン・ペトロの姑のように、仕える者として招かれているのです。

しかし、わたしたちは、自分が自分自身に対して寝込んでいる場合が多いのです。自分が知っていることを自慢したり、人と比較して落ち込んだり勝ち誇った気になったり、思うようにならない相手に意地悪な言葉をかけたり、実際に勝ち負けのこの世の中で疲れて、自分の殻の中に閉じこもっている場合が多くありませんか。そして、今は、コロナ禍の中で、緊急事態宣言だからと言って、行動の自粛ばかりではなく心の扉まで占めてしまっていたりはしないでしょうか。

直接イエスさまの招きを受けていたペトロやほかの弟子たちもそうでした。どこまでも従いますと誓うほど強気でいたペトロは、イエスさまが十字架刑に処せられてゆく夜、イエスさまのことを知らないと、三度も否認したのです。イエスの仲間であると知られたら殺されると思って、怖くて、部屋に閉じこもっていたのです。

人は失敗をします。従っているつもりなのに、気づかないうちに自己中心的な道に入ってしまいます。一回ではなく、何度も同じ過ちを繰り返します。それでいいと思います。失敗しないために何もしないのではなくて、熱を出して寝込むほど失敗をしていいのです。

しかし、大切なことは、失敗したそのわたしのことに気づいてくれる仲間とつながること。自己中心的でとんでもないわたしのことをイエスさまに祈ってくれる仲間や共同体、そういう関係が大切なのです。

わたしにとってそれは幼稚園の子どもたちです。朝には朝が来たことを、讃美歌を歌いながら伝えてくれ、お昼になったら大きな声でこれからお昼だと知らせてくれます。寒い冬でももうすぐ春が来るよと季節の言葉をかけてくれます。そして、夏休みや冬休みには、何も聞こえない園舎に対して寂しい思いを抱かせてくれます。

それは、常に自己中心的な自分から起き上がるように目を覚まし、手を差し伸べてくださるイエスさまの眼差しそのものです。

わたしたちは一人ではないのです。イエスさまを頭とするこの鵠沼めぐみルーテル教会の群れが、互いに響き合うのです。差し伸べられるイエスさまの手を一緒につかむのです。さらには、教派と国境を越えて、キリスト者としての日本全国、全世界の群れが一緒です。

起き上がりましょう。わたし自身から起き上がって、コロナ禍の中にあっても、神の国を広げる働きに遣わされてゆきましょう。迎える一日一日は大切でありますが、その日が、使い方によって、ただのわたしのための一日にするか、神の国を広げてわたしたちみんなの一日にするかは、わたしの選択です。

祈ります。

慈しみ深い神さま、わたしたちはキリストとの出会いによって召されているのに、常に自己の中に閉じこもってしまいます。春の訪れに暖められて、どんどん心の扉を開いて、隣人とつながり、主の弟子として仕える働きに遣わされたいのです。あなたが手を差し出してくださるゆえに、どんな状況の中でも宣教ができる喜びに感謝いたします。イエスさまのみ名によって。アーメン。

ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/j9YKUW5ovhI