顕現後第2主日 説教

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ヨハネによる福音書1章43~51節

体は知っている

昨日は藤沢市内キリスト教連絡会主催の一致祈祷日の礼拝を、教派を超えた市内の教会の方々と守ることができました。コロナ禍のため、ズームを通しての集まりでしたが、豊かで大切な時だったと思います。

キリスト教一致週間は、実際は明日から始まりますが、せっかく世界中で覚えられる明日からの一週間、どのように過ごすか、一人一人、祈り考えたらいいと思います。コロナ禍の中ですから、家の中にとどまり、この八日間を、一致を願い求める黙想と祈りのときに当ててもいいのではないかと思います。教会としては、ホームページの日々のことばのところに、一致祈祷日の黙想個所を載せますから、どうぞ、ホームページをご覧になってください。

さて、今日は顕現節第2主日。洗礼を受けられたイエスさまの新しい歩みが始まりました。神さまの働きをなさる公生涯が始まったのです。御働きに先立ってイエスさまは、人々の中から弟子たちをお選びになります。ご自分と一緒に神さまの道を歩む人に声をかけられます。今日は、フィリッポとナタナエルが召されています。

ヨハネ福音書の弟子たちの顔ぶれは、共観福音書、すなわちマタイ、マルコ、ルカの福音書に登場する弟子たちの顔ぶれと異なります。来週はマルコ福音書から聞くことになっていて、「わたしに従いなさい、人間を取る漁師にしよう」という弟子の召命の個所が選ばれています。そこではペトロやアンデレ、ヨハネやヤコブがまずイエスのもとへ呼ばれています。その箇所から田坂さんが説教を準備してくださっていたので、来週は田坂さんの説教原稿をお読みすることになります。

さて、今日は、フィリッポとナタナエルがイエスさまに呼ばれています。そのうちナタナエルに注目したいと思います。フィリッポはナタナエルにこう告げました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と。それを聞いたナタナエルは、、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、見下したような言い方をして、フィリッポの誘いを打ち切り、イエスさまのことを否定します。

しかし、そのナタナエルをイエスさまは見ておられました。そしておっしゃるのです。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と。ご自分のことを疑って、否定するナタナエルのことを偽りのない人と言っておられるのです。

イエスさまは、ナタナエルがイチジクの木の下にいるときから彼を知っておられました。ナタナエルが気づく前から、イエスさまの方から先に気づいておられたのです。

しかし、ナタナエルはイエスさまに気づかれていることを知らずにいちじくの木の下に立っていました。このイチジクの木は、ナタナエルにとって何だったのでしょうか。彼はどうしてイチジクの木の下に立っていたのでしょうか。

イチジクの木。そこにナタナエルは立っていて、その彼をイエスさまは見つめておられたのです。イエスさまは、イチジクの木の下にいるナタナエルの迷い、渇き、葛藤、何か本物を捜し求めているその内面のすべてをご存知だったのです。

ナタナエルが留まっていたイチジクの木の下。現代のわたしたちの周りにも、このイチジクの木のようなものがあると思います。皆さんは疲れたら、どこでそれを癒そうとしますか。思うように物事が進まないとき、人との関係の中で葛藤が生じたとき、精神的にも身体的にも疲れ果ててどうしようもないときに、どこに行くのでしょうか。ナタナエルが立ったイチジクの木の下、それは私たちにとってはどこでしょうか。

子どもなら、素直に、お腹が空いたら泣けばいいし、怪我をしたときや怒られたときも泣けばいい。しかし大人はそういうわけには行かないので、我慢をします。でもそのうちに我慢がその限度を越えてくると、すっかり腹を立てて、怒りを特定の人にぶつけます。

そんな私たちのことにイエスさまは心を留めておられます。そして、弱って、疲れている私たちを呼ばれるのです。私のところに来なさい。私が歩こうとしている道を一緒に歩こう。ここは、あなたの疲れや渇きが癒され、もうさ迷わなくてもいい道だから、安心してついて来なさいと招いてくださいます。

イエスさまは、知っておられるのです。私たちがイエスさまに気づく前にイエスさまが私たちの内側の一つ一つを知っておられるのです。私たちの人生の舟の中に、既にイエスさまは入っておられ、見知らぬ方のように、静かに隠れておられるのです。ですから、わたしがまだ話す前にイエスさまは私が話そうとしていることを知っておられ、私にとって何が一番ふさわしいかをご存知なのです。

この方のところへ帰れれば私たちは一番の安息を得られるはずです。しかし私たちは、この世が提供する偽りの安らぎの場を求めて、神様からどんどん離れてしまうのです。

昔、エヴァとアダムが、神さまから離れて、イチジクの葉っぱで恥ずかしいところを覆って隠れていくように、私たちも、すぐ枯れてしまうような偽物で恥ずかしところを隠しながら神さまから離れていこうとするのです。ナタナエルのように、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、貧しく小さなものに秘められた福音に気づかず、それを見下し、そして名声と権力の世界に救いを求めてしまうのです。

ナタナエルは、良く聖書を学んでいる人です。知的な人です。来るべきメシアへの待望をも持っている人です。学識が豊かでも、その内側は常に渇き果てていて、それをどうやって満たしたらいいのかわからず、仲間から離れてイチジクの木の下にいました。

その彼をイエスさまは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃって、彼をご自分の道へ招かれたのでした。つまり、「あなたこそ真の神のもの、あなたこそわたしの大切な友、あなたを私は信じている」と、イエスさまが先に愛の告白をなさっておられるのです。そしてさらに、「あなたは、もっと偉大なことを見ることになる」と。

実際、ナタナエルはイエスさまと一緒に神さまの道を歩み始めると、イエスさまが起す数々の奇跡を見るようになります。彼の故郷のカナでは、婚礼のぶどう酒がなくなったときに、水がぶどう酒に変るような奇跡にナタナエルは立ち会います。

それどころか、イエスの道を歩む弟子たちは、死者が復活するという、もっと偉大な出来事に出会います。暗闇と光を左右する力を有した方と一緒であるという、大いなる道を歩いていたことに気づかされるのです。

イエスさまが歩まれる公生涯の道。その始まり。そこで召されたナタナエル。そして、私たち。イエスさまが歩まれる道は、確かに栄光に包まれる道ですが、貧しい道です。それは、ただお金がなくて貧しい道というより、持っているものを持っていない人たちと分かち合う道です。身軽でシンプルな道です。心と体を喜ばせる豊かな道です。そしてその道には、祈りがあり、沈黙があります。癒しがあり、赦しがあります。いろいろの人がいて、多様で平等な道です。

新しい始まりに、一人でさ迷わないで、私の道を一緒に歩こうとイエスさまは私たちに呼びかけておられます。おいで!みんなと一緒に行こう!と。

ナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白しました。ナタナエルがすべてを委ねてイエスの招きに応えたように、私たちも、この私のすべてを差し出しながら、主の招きに応えて今日から新たに歩き出しましょう。

 

ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/Snsr2SnXLt4