その一言で

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ルカによる福音書1章26~38節

その一言で

待降節第4主日。定められた四週間のアドベントの間、私たちは救い主が来られる道を整えてきました。コロナ禍の中、きっと、例年のアドベントとは異なった思いで過ごされた方も多いのではないかと思います。それは、ただソーシャルディスタンスを取るということだけではなくて、キリスト者として、コロナ禍の中に置かれて苦しむ隣人のために何ができるか、それを問い続ける日々だったのだと思います。

その意味では、今週も含めてのこの四週間の歩みは、ある意味で新鮮だったのではないでしょうか。

そして、その新しい歩みは、決して一人ではなかったのだと思います。誰かが傍にいたはずです。救い主にお会いするための道を誰かが一緒に歩いていたのでしょう。

そもそも、私たちの人生がそうだからです。私たちは生まれながら親がいて、兄弟がいて、友達がいて…生まれる時から傍に誰かがいます。これと同じように、特にイエス・キリストの来られる道、わたしがイエス・キリストと出会う道、その道を整えるそこには、必ず誰かが一緒にいます。そのように人間は造られたからです。もちろん、その人との間に、時には葛藤が生じることもあるでしょう、時には寂しく、でも時には楽しく、そして驚きもあり…そんな中で道は作られ、その道を歩いてここまできました。

そして今日、私たちは、天使ガブリエルとマリアの対話に立会い、再び、救い主が来られる道の方角を示されるのです。

神さまは天使ガブリエルをマリアのところに遣わされました。遣わされたガブリエルは言います。

おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)

その挨拶を聞いて驚くマリアに、ガブリエルは続けて言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない(30~33)。

しかしマリアは抵抗します。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と。婚約者がいます。優しい人です。彼らが結ばれることを周りもみんな知っています。なのに、他の人の子を身ごもるなんて!もし、婚約しているヨセフが訴え出れば石打ち刑で罰せられるほど、重い罪を負わなければなりません。

しかし、ガブリエルはマリアに決定的な言葉を伝えます。「神にできないことは何一つない」と。つまり、このことは、人の計画ではない、これから起きることはすべて神の領域で起きることである、神が全てをなさるのだ、というのです。この言葉を聞いて、マリアの心は定まりました。

もうすべてを委ねてもいい。いいえ、委ねなければならないと確信したのです。

一言の言葉がとても強い力を持つときがあります。

先日、ある月刊誌で「その一言で」という詩に出会いました。このような詩です。

その一言で励まされ、

その一言で夢を持ち

その一言で腹が立ち

その一言でがっかりし

その一言で泣かされる。

ほんのわずかな一言が不思議に大切な力をもつ。

ほんのちょっとの一言で。(高橋系吾)。

平凡な言葉ですが、とても素晴らしい詩だと思いました。ほんの一言が、人を動かすのです。多くの言葉はいらないのです。ほとんどの物事を正しく進めるのは、真実な言です。

聖書の中でも、大きい信頼をイエスさまにおいている人は、そのシンプルな一言をとても大切にしています。こんな個所があります。

ある百人隊長が部下の病気を癒していただこうとイエスさまの前にひれ伏します。するとイエスさまは、「行って癒してあげよう」と出かけようとします。しかし百人隊長はこういいます。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。この話を聞いたイエスさまは、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

そして「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:5~13)とおっしゃって百人隊長の願いを聞いてくださったのでした。

一言おっしゃってください。そうすればわたしの僕は癒されます。一言おっしゃってください。わたしは癒されます。

その一言。マリアは、「神にできないことは何一つない」というこの一言で、すべてを神さまに委ねます。そして、こう応えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と。

マリアのこの大胆な決断によって、周りが変わります。優しく正しい人ヨセフは、血縁を重んじるユダヤの律法にあえて立ち向かい、血縁ではなく生まれるイエスの父になってマリアを妻として受け入れます。

祭司長やファリサイ派のように神さまに救われていると自負していた人たちと、羊飼いや占い師、徴税人や娼婦などのように、神さまの救いから遠いと言われていた人たちの立場が逆転します。経済的に豊かな人々と貧しい人々の立場が逆転します。マリアの大胆な信仰と決断を通して、神さまは働かれたのです。

その一言で、人は神を受け入れ、神は人を器とし、この美しい出会いの中で、救いの御業はたんたんと進められるようになります。もはや、これから何が起きるかは、すべて神さまの責任なのです。

今まで聞いたことのない声を聞き、その声に従って歩いたことのない道へ入って行く。誰も歩いたことのない道へ自分を委ねるということ。そこにはどれだけ大きな戸惑いと驚きがあることでしょう。だから冒険です。マリアのような冒険です。神を受け入れ、神さまの器となることによって美しい出会いを果たし、私の人生の中に救いの御業が起きるようにしていくという冒険です。

クリスマスは、このように、人の戸惑い、または人の驚きを通してやってきます。

神の救いの業は、初めから完成された形で現れるのではありません。人を戸惑わせ、驚かせ、そして時にはわくわくさせながらもたらされます。私たちは、まさに今、こういう戸惑いと驚きの中にいるのです。

教会の宣教も同じことだと思います。

神に出来ないことは何一つない」という一言に希望を置いて、その一言に将来を委ねて歩き始めるのです。それは、奇跡を生きると言うことです。人の想像をはるかに超えた神の働きに教会の歩みを委ねる。教会の弱さを委ねる。弱さの中に働かれる神様を迎える、そこでは、葛藤や戸惑いが起きます。だからこそ、その歩みは、信頼の旅になるのです。

「神にできないことは何一つない」。この一言に信頼をおいて、マリアのように新しい道へ歩み出しましょう。私たちの家族のこと、仕事のこと、健康のこと、これからのすべてのこと、それらを神さまに委ねて、信頼の旅に出かけるのです。その時に、私たちの人生そのものが、イエス・キリストという福音を生み出す宣教の歩みになるのです。

 

ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/nP_Oh4_syu0