神のものは神に

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私が来日した頃の日本の消費税はまだ3%でした。30年ほどの前の話しですが、それでも、消費税がなかった韓国の留学生にとって3%を買い物額に上乗せすることは、大きな負担と感じました。それが、今は10%にまで上がりましたから、コロナ禍の中、特に貧しい人々の生活はたいへんです。

イエスの時代のイスラエルも、税金のことは大きな問題でした。当時、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルの人々は、本来なら収入の十分の一を神殿に納めることで済むはずの暮らしが、ローマ帝国に対しても納税の義務が生じ、これは人々とって大きなジレンマでした。当時、ユダヤ地方の総督としてコポニウスという人が着任して以来、人々は、一律にローマ帝国に対して人頭税を納めなければならなくなりました。そのために人口調査も行われますが、それに反抗するグループがガリラヤから起きて、反対運動をします。その反対運動は、後ほどユダヤ独立を目指す、ユダヤ戦争へとつながっていきます。

この納税拒否運動は、税が過酷であるという経済的な問題もありましたが、真の王でおられる神にのみ仕えるべきユダヤ人が、神格化されていたローマ皇帝に対してまで税金を払うことに対する抵抗運動でしたが、ヤハウェのほか何者をも神としてはならないという、十戒を破ることになる、宗教的問題でした。しかし、このような抵抗運動は厳しい弾圧を受けます。そして、今日、イエスを囲む人々には、この抵抗運動が受けた厳しい弾圧の生々しい記憶が残っています。

このような状況でしたから、「律法」に照らして納税が妥当か否かをイエスに問うということは、イエスを困らせて、罠に陥れるには最高のチャンスだったのです。もし、イエスが納税を否定すれば、ローマ帝国への反抗を意図する者というレッテルを貼ることができます。逆に、イエスが納税に賛成すれば、民衆の信頼を失うことになります。どちらの答を出しても、イエスが困るのは目に見えることでした。

そして、今イエスに質問をしかけているファリサイ派は、納税に反対していましたが、ローマ皇帝への税金は神から課せられた重荷であると解釈し、実際には税を納めていました。

他方、イエスに質問している場所にはヘロデ派もいましたが、ヘロデ派は、ローマ帝国の支持によってヘロデ家の再興を期待していたので、納税に賛成の立場をとっていました。

こうして、本来は意見の一致しないファリサイ派とヘロデ派でしたが、イエスを困らせるためには一致しているのです。イエスのもとに来て質問し、イエスが賛否のどちらの答を出しても直ちに捕らえられるように、手はずを整えていたのです。

彼らはイエスにこのように聞きます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょか、適っていないでしょうか」(17)。イエスはこうお答えになりました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。この答えに、「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」(22節)と聖書は記しています。整えていた策略を実行できずに、ファリサイ派とヘロデ派の弟子たちは、そのまま自分たちの師のところへ帰って行きました。

ファリサイ派とヘロデ派の弟子たちが、このイエスのお返事の言葉に、なす術もなく、そのまま帰って行くしかなかったように、聖書も、このイエスの答に対して、何の解釈も出していません。わかるのは、イエスのお返事に、ファリサイ派とヘロデ派の弟子たちは驚いているということです。それは、自分たちが期待していた答えではなかった、想像すらしなかった返事が返ってきたことに対する驚きだったと思いますが、ほんとうにそれだけなのでしょうか。

イエスは、ご自分に質問している彼らの心が悪意で満ちていることをご存知でした。つまり、彼らは、税金の話をしているけれども、その心はお金に捕らわれていて、そのためにイエスを罠にかけようとしていることを見抜いておられたのです。

お金は人を悪意に導きます。「税金」という形を通して、各々置かれた立場、つまり、ファリサイ派、ヘロデ派という立場を利用してそれらしき葛藤を引き起こしていたのかもしれません。しかし本心は将来の栄を保証しようとするたくらみであり、その自分たちのたくらみを真正面から指摘してくるイエスが嫌いです。消したいと思って問題になっている税金のことを話しかけてきます。

自分たちの暗闇を見抜いているイエスを排除しようとしている人々。ファリサイ派とヘロデ派の互いの対立にもまして、イエス・キリストの存在がどうしても受け入れられないのです。彼らの弟子たちはこのように言っていました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16)と。彼らはイエスのことを褒めたたえながら近づいてきたのでした。

彼らは、イエスが、真実な方で、真理に基づいて神の道を教える方で、相手によって立場を変えるような方ではないことを知っています。知っているから、イエスが嫌いなわけです。どんな権力にも属さなければ、富に対しても束縛されず自由で、自分の命を堂々と差し出すことのできる人。つまり、暗闇の存在に対して恐れず真正面から向き合うことのできる、それだけの光をもっている、光そのものであるイエスの存在が、すぐにでも消してしまいたいくらい、嫌いなわけです。自分たちの心に抱いていることがすべて見抜かれていますから、怖いわけです。

私たちは、このファリサイ派やヘロデ派の弟子たちの姿に自分を見ることはないでしょうか。とんでもないとおっしゃるかもしれません。イエスを試したり、イエスを消したいと思ったりするなんて、思ったこともないとおっしゃることでしょう。

しかし、私は、実は、ファリサイ派やヘロデ派の人々のような身の振り方をしている自分がいることに気づきます。私は、イエスが、真実な方で、真理に基づいて神の道を教える方で、相手によって立場を変えたりしない方であることを知っています。しかし、頭はそのようにわかっていますが、心がついて行かないときがあります。頭と心が分離していて、私が王のように偉い座に座って、神を家来のように使おうとするときがあります。

先週、外の掲示板に出したマザー・テレサの言葉のように「わたしにとっては、そのとき目の前にいる人こそキリストであり、わたしのすべてなのです」と、頭の中ではそう思っていますが、実際の行いでは、目の前にいる人を私の思いを実現してくれる道具のように扱おうとする、その自分がいるのです。

その私にイエスは語りかけます。恐れることはない。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。つまり、律法に書いてあるから、それを暗記して守るような歩み方ではなく、進んで、この世に生きる者としてはこの世の秩序づくりに参与し、神の国に招かれた者としては、率先して神に仕える者になりなさいということ。

私にあるものはすべて神からのものです。私の体、その外側も内側も、能力も実力も、知恵も知識も、魂も命も、財産も、時間も、何もかも神のものです。これは神さまからの最大の祝福です。

ここに、信仰の基があります。神の国の王は、私ではなく神です。私をお招きした神が主体となっておられる神の国の民として生きるとき、そのときに、私は、この世に置かれている私の人生と、私の人生の中で出会った人や仕事、すべてのものの中で主体的な存在になります。それは、身勝手な主体性ではなく、愛を生きようとする主体性のことです。ゆるしと喜びを選び取る主体性です。さあ、率先して、愛する道、ゆるしの道へ遣わされてゆきましょう。

 

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