婚礼の服

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婚礼の服

マタイによる福音書22章1~14節

お招きを受けるということは、嬉しいことです。家庭の食事の席に呼ばれるということは、その人の存在が肯定されているということです。ですから、キリスト教の伝統の中で大切に受け継がれできたことの一つは、人を招いてもてなすということです。福音を生きるというのは、自分が神さまに招かれていることに感謝し、自分も他者を招いてもてなすことなのだと思います。

今日の福音書には、ある王様が王子のために婚宴をもうけ、多くの家来たちを遣わして人々を招く様子が描かれています。しかし、招待された人々は王様のお招きを無視して、来ませんでした。畑仕事があるとか、商売で忙しくしていて、結婚式のお祝いの場に行く暇なんかないような様子です。人の喜びを分かち合う余裕のない生活、今の私たちとよく似ていますね。

そこで王様は別の人々を招待します。しかし招かれた人たちは、先週の福音書の農夫たちと同じように、招待状をもってきた家来たちを捕まえて、暴力を振るい、殺してしまいます。

悲しくなった王様は、今度は、見かけた人は誰でも、婚宴に連れてくるように、家来たちを送ります。すると、婚宴の場はいっぱいになりました。王様は大満足しています。しかし、招かれた人々の中に、一人だけ、礼服を着ないで出席している人がいました。王様はその人に聞きます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と。その人は、黙っています。

どうしてこの人は返事ができず、黙っているのでしょうか。

そもそも、婚礼の場にふさわしい「礼服」とは何を指しているのでしょうか。

一体この人は誰でしょうか。

幼稚園では、先週の8日に、10月生まれの子どもたちの誕生祝福式がありました。今月誕生日を迎える子どもが、10名ほどいました。年少から年長まで、誕生日の順に、一人一人を祝福し祈りました。はじめに、司会の先生が誕生日を迎えた子に聞きます。「お名前と、何歳になったか教えてください」。すると、年少組の一人の女の子が、名前は言えたものの、何歳になったかを言わずにじっと立っているのです。その子の誕生日は10月の後半で、まだ誕生日を迎えていなかったのです。

わたしは、その子どもの姿を見ながら、神さまがそこにおられるのを見ているように、嬉しくなりました。神さまが、祝宴を開いて誕生日を迎えている一人一人を祝福し、その祝宴にみんなを招いてくださっていると思いました。

そうなのです。経験したことのないことは、本当はわからないのです。年長くらい大きくなると、まだ誕生日を迎えていなくても、「これから6歳になります」と答えられるのです。しかし、年少組の三歳の子どもたちには、まだこのような知恵がないので、今のことしかわからないのです。

答えることができない。経験したことのないことを、まるで経験して知っているたかのようには言えないその純粋さ。この世的に考えたら、融通が利かないと言われるかもしれません。しかし答えられないのは正しいことでした。

さて、今日の福音書の中で、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と聞く王様に、黙って、返事ができない人。この人も、答えられるような経験がないから、黙るしかなかったのだと思うのです。

この人がどんな経験をしてこなかったのか、具体的なことはわかりませんが、私はこの人の姿を自分の姿に重ねます。人のことはわからなくても、自分の内側の渇きはわかります。その渇きを十分に満たすようなことは、一度もないから、満たされた時のことを聞かれても、答えることができないのです。王様が求める「礼服」が、内面の自分に着せる服だと考えるなら、私自身は、未だに、一度も、ちゃんと着たことのない自分の内側を見るのです。ですから、王様に聞かれても、黙るしかないと思うのです。

皆さんも良く知っているマザー・テレサは、生前こんなことを話していました。

「もし、わたしが聖人になるとしたら、きっと暗闇の聖人になります。地上で闇の中に住む人たちに光を灯すために、いつも天国を留守にすることになります」と。

マザー・テレサは、生前、仕事が終わって自分の部屋に戻ると、深い闇の中に包まれて苦しまれたそうです。自分の中にある深い闇の力、それは、不安な心、もう疲れたと呟く惨めな姿、どうしようもないものでありました。こういう悩みの中で過ごされたマザー・テレサの姿を、わたしたちは想像すらしてこなかったと思います。

聖人と呼ばれるような偉大な人であっても、自分ではどうすることもできない闇の力に内面が覆われ、その力によって悩むような日々を過ごしておられたのです。

だからこそ、マザー・テレサは、人の中にある暗闇の存在を見つめることができたのではないでしょうか。

人間として生まれても、貧しさのゆえに人間らしく死ぬことがゆるされない人がいる。階級の差のために病気にかかっても病院にいくことのできない人がいる。彼女は、インドのカルカッタで、自分の全存在を、その人々のために捧げ、一緒に生きました。その自分のことを、彼女はこう述べているのです。

「もし、わたしが聖人になるとしたら、きっと暗闇の聖人になります。地上で闇の中に住む人たちに光を灯すために、いつも天国を留守にすることになります」と。

聖人とされた人の中にも暗闇があり、そして階級差別を受け、人間以下の扱いを受けながら生きる人の中にも暗闇があります。同じく私の中にも暗闇は存在します。自分ではどうすることの出来ない恐れや不安と闘うときがすくなくありません。

皆さんもそうかもしれません。洗礼を受けて、神の国への招きを受けてはいるものの、救いの確信が揺らぐときがあります。本当にこんな自分でいいのだろうかと不安になったり、果たすべきだと知っていながらも果たせないことへの罪悪感に支配されたりする日もあります。どうしても赦せない人がいます。人にはいえない秘密を抱えている。しかも、そんな自分を丸のまま神さまに委ねられない。そんな悩みの中では、「どうして礼服を着てこなかったのか」と聞かれても、どうしてなのかわからないのです。返事ができない。王様から問われても黙るしかありません。

しかし、そのわたしの傍に、王子が、キリストが座っておられます。静かに、黙っている人への王様のやり取りを聞きながら、そっと寄り添っておられるのです。何もおっしゃらないけれど、その沈黙を通して伝わるメッセージは明確です。「安心しなさい、わたしがあなたの傍にいる。わたしがあなたの内面を覆う礼服になるから、私があなたを代弁するから、恐れることはない。あなたは安心して婚宴を楽しみなさい」と。

そうなのです。私たちは、確かに神の国の食卓へ招かれています。毎日が忙しく、自分で礼服を着る間もないくらいばたばたしている日々ですが、私たちは、今、ここにいるのです。そして、その私たちの傍にキリストがおられるのです。キリストが私たちとつながってくださっているのです。キリストご自身が、暗闇の中でさ迷う私たちに、和解と赦しの道を開いてくださっています。

この道をまだ知らない人が大勢います。わたしの家族が、わたしの友人が、わたしの隣人が、まだ一度もこの道を歩いたことがありません。招かれた者として、今度は私たちが、キリストの和解と赦しの招待状をもって出かける番です。

 

望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。

父と子と聖霊のみ名によって。

 

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