神の軌道修正

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2026年4月5日(日) 説教

主の復活祭

子どもと大人の合同礼拝

ヨハネによる福音書20章1~18節

神の軌道修正

 この世に生まれ育ち、たくさんの出会いと経験の中を生かされる私たちは、世話になっているこの世に対して、恩を返す生き方を意識して生きることが大切と思います。この世の皆が平等で平和に暮らせる環境を、政治家や人任せにしないで、自分のこととしての生き方です。どんなに小さなことでも私にある力を足すのです。そのためには、はっきりと自己表明が求められる場合もあるでしょう。

 たとえば、今、世界が、侵略戦争や経済危機を迎えているとき、平和や愛するということを自分なりに生活の場で現すのです。私たちはイエス・キリストとのつながりの中で生きる者ですから、神の正義を生活の現場で現すのです。そのためには、正義とは何か。愛するとはどういうことなのか。私が正しいと思うことが正義ではなく、すべての人の人権が守られ、その国の平和が守られて皆が平等で暮らせる世界を願う。そのために、物事を正しく見る視点が必要です。

 ガリラヤから始まったイエスの神の国運動は、まさに神の正義の実現のためのものでした。その宣教の始めにイエスさまはこうおっしゃいました。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2:17)と。つまり、徴税人や娼婦、病人、貧しい人たち、精神的・身体的な障害を負っている人たちが「罪人」とされ、救われない人のグループに入れられて余儀なく差別を受けていた、その世界に対して、イエスさまは神の正義をもって立ち上がったのでした。それは、命をかけての闘いでした。しかし、武器を持った闘いではありません。歪曲され、蔑ろにされていた神の言葉と心を明らかにし、断絶されていた神と民の関係を修復するための闘いでした。しかし、派閥を組んで誤った神理解を教え、長い間差別と偏見を習慣的に繰り返してきた宗教界の指導者たちにとって、正しいことを言うイエスは面白くない人でした。それで、ローマの政治家を利用し、イエスを十字架刑に処して殺したのです。殺してしまえばすべてが終わると思ったのでしょう。

 しかし、神の正義はそこから始まりました。神を冒涜したという濡れ衣を着せられて十字架の上で死んだ、愛する者の死に、神が介入してこられたのです。私は、これを「神の軌道修正」と言いたいです。罪のない人を殺して自分たちの立場を守ろうとする人の悪質に対して、神がご自分の真の正義を表明して立ち上がったのです。イエスを死者の中から起き上がらせ、復活させて新しい命に生きる者としてくださいました。死が終わりではないということ。死を超えて生きる新しい世界があるということ。それは、死を怯えながら生きる私たちに、神さまが一方的にもたらした希望でありました。私たちはその神の恵みに預かることができたのです。

 本日の福音書はそのことを語っています。一人の女性がイエスの遺体が置かれた墓を訪れてみると、お墓の入り口が開いていたのです。彼女は、急いでペトロと主の愛されたもう一人の弟子にそのことを知らせます。すると、ペトロともう一人の弟子は直ちに墓に向かいます。最初は歩き始めたのですが、ついに走り出し、もう一人の弟子の方が早く着きました。どうしてもう一人の弟子の方が早かったのかについていろいろ見解があります。もう一人の弟子は近道を通ったからとか、ペトロはイエスが十字架刑につけられたとき、三度も「知らない」と否認したために、罪の思い出があってイエスの墓へ向かう足が鈍かったとか、もう一人の弟子の方がペトロより若かったからと。

 もう一人の弟子と呼ばれるこの人は、この福音書の著者ヨハネのことです。イエスの愛しておられた弟子とも呼ばれる彼は、イエスさまとの愛の交わりの中にいたことがわかります。ヨハネがこの福音書を書いていたときは90歳を過ぎていました。ほかの福音書にはない、主の墓に誰が先に着いたかという記事を書いているのは、自分も若い時は足が速かった、ペトロより速く走ることができたことを著したかったのかもしれません。

 ともかく、早く着いたヨハネは中へは入りません。中を覗くとそこには亜麻布が置いてありました。あとから着いたペトロがお墓の中に入り、ヨハネも入りますが、外から見たのと同じく亜麻布が置いてあり、顔を包んでいた覆いは離れた場所に丸めてありました。亜麻布にまかれて葬られたご遺体はなく、亜麻布だけが置かれている。さらには、離れたところに顔を包んでいた覆いが丸められて置いてある。誰がこれらの布を丸め、整理して置いたのでしょうか。すべての福音書が復活の朝の様子をそれぞれの視点から伝えていますが、ヨハネ福音書は、墓の中の様子がまるで人の手が関わったかのように描いています。さらには、もう一人の弟子は、そのお墓の様子を見て、信じたと言うのです。何を信じたのでしょうか。それまで、イエスが死者の中から必ず復活することを記した聖書の言葉を、彼らはまだ理解していなかったと書いています。聖書の言葉を理解していない者が、絶望と悲しみの暗闇に包まれたお墓の中で、暗闇の中で信じたというのです。イエスの遺体がなくなって途方に暮れるはずの状況の中で、使われていた布だけが整理されて残されているその状況を見て、信じたと言うのです。いったい何が起きているのでしょうか。

 ヨハネ福音書で「信じた」という表現が用いられるのは、深い意味で信仰をもったときだけです。そして面白いのは、ヨハネとペトロの組み合わせで、ペトロもお墓の中に入って同じ光景を見ていますし、イエスの使者の中からの復活の聖書の言葉が理解できなかったのも二人同様です。しかし、見て、信じたのはもう一人の弟子だけでした。このことは、二人がお墓の方へ走った時に、もう一人の弟子が先に着いたことと関係しているのかもしれません。

 ヨハネ福音書の21章には、ガリラヤ湖で復活のイエスが船の中にいる弟子たちに語りかける記事があります。他の弟子たちは語りかける人が誰かわからない、そこで、もう一人弟子が「主だ」とペトロに言うと、ペトロは裸だったので上着をまとって湖に飛び込む事件が起きます。つまり、この福音書は、イエスに愛され、イエスとの愛の交わりの中にいたこのもう一人の弟子が、お墓にも早く着き、信じることも早く、復活の主を見抜くのも早いということを書きたかった。しかしそれは、単なる偶然ではなく、愛の交わりの中にある者が、イエスと結びつき、イエスを信じ、イエスを証することにおいて早いということをヨハネは伝えようとしているのではないでしょうか。

 そのように、愛は不思議なものです。ある時、突然、信ずることが起こるということです。また聖書が理解できず、聖書の知識が浅くても、イエスの愛の交わりの中に入れられ、イエスと結びついた生き方の中で人は信仰の芽を芽生えさせ、育てることができるということです。そして、神の軌道修正は愛の関係の中にあるものを通して行われるということ。

さらに、もう一つの軌道修正が行われています。ペトロとヨハネにイエスのお墓が開いていることを知らせたマリアの信仰においてです。イエスの生前、彼女は、イエスの近くにいてその働きを手伝ってイエスを愛しイエスに愛されました。女性が、人数にも数えられず、子どもを産む道具扱いを受けていた男性中心主義世界の中で、イエスは女性も男性も、貧しくても障害があっても、等しく神の愛への招きを受けていると宣言してくださった。そのイエスが死んだということは彼女にとって自分の死そのものでした。愛する方との死の別れにただただ悲しむしかない彼女に、復活の主は近寄り、「マリア」と名前を呼んでご自分を現してくださいます。そこでマリアは、フィジカルな、物理的な世界から解放されます。感覚的交わりから、無限の愛と平和の交わりの中に入れられます。彼女は、初めて、肉眼ではなく心の目でイエスを仰ぐことができました。彼女の信仰の軌道修正です。愛する主の復活の姿に出会った彼女の人生が一気に新しい方へ変わりました。心のときめきが絶えない、新しい命の世界を生きる人になったのです。

 復活のイエスの世界、そこは、無限の愛の世界です。持っているものや知っていることによって評価されるのではなく、どれだけ愛し、愛されたのかが問われる世界。つまり、心がときめくときをどれだけ過ごしたのか、どれだけ心躍る経験をしてきたのかが問われる世界です。人は、どれだけ息をしたのかとその数を数えて歳の長さを計りますが、復活の主との交わりの中にいる世界では、何度心がときめいたのか、心臓の鼓動の音が何度なったのかが大切にされる世界です。いただいた喜びを分け合わずにはいられない、喜びあふれる自分を現すためにどんどん出ていく、出ていきたくなる世界です。新しく変えられたマリアは、死を恐れて隠れている人たちに、皆さん、「私は主を見ました」と、恐れることなく大胆に伝えることができました。恐れる者をその恐れから解放する道を示す、それが神の正義であり、愛を実現する道です。

 私たちも復活のイエスとの愛の交わりの中に招かれています。あふれる愛と喜びを、今、自分が世話になっているこの世に分かち合って生きるために、私たちの名前が呼ばれています。戦争や差別の中、憎しみ合い、争い合う世界ではなく、平和な世界を望む私たちは、この神の愛をもって出かけていきましょう。

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