誘惑の手
2026年2月22日(日)説教
四旬節第1主日
マタイによる福音書4章1~11節、創世記2章15~17節、3章1~7節
誘惑の手
四旬節が始まりました。皆さんは今年の四旬節に何か特別に祈っておられることがありますでしょうか。人との関係、整理したいこと、信仰の悩みなどいろいろとあると思います。私は、自分の祈りの課題を紙に書き出して計画的に実行していこうと思っています。そうしなければ、ただ思うだけで終わってしまうからです。今年の四旬節の私の祈りの課題は、好き嫌いという境界線をなくしていくことです。完全になくすことは出来ないかもしれません。その線が薄くなってくれば少し楽になることでしょう。好き嫌いという世界にいる限り人はとても不自由になるからです。食べ物、着る物、天気、季節、人間関係など、ありとあらゆることを、人は好き嫌いという感情を通して判断します。今、目の前にいる対象とそのまま、ありのまま向かい合う、不平不満を言う相手をそのまま受け止める。一緒にいることで嫌な思いを抱かせる誰かと、平和で一緒にいられる。そのためには、それなりの力が必要となるので、祈りをもってその力を養いたいと思っています。私にとって未だにクリアできないのが「蛇」との関係です。蛇に対して抱かされる恐怖感、気持ち悪いという思いはなかなかなくなりません。私の中の何が蛇に対してそう反応してしまうのかわかりません。きっと何か理由があると思います。
二週間ほど前に風邪を引いて家の中で療養していたとき、一冊の本を読みました。とても分厚い本だったので、まとまった時間がないと読めないと思い、ずっと隅っこにおいてありました。皆さんもご存じかもしれませんが、「その男ゾルバ」(Zorba the Greek)という本です。著者はニコス・カザンザキスという有名なギリシャ文学作家です。ゾルバという男と彼を雇ったボスと呼ばれる人が、ギリシャのクレタ島で鉱山を掘り起こす事業を営みながら交わす話、その島で起きることなどでつづられた東欧文学です。本の中心メッセージは、概念の中に閉じこもっている人やキリスト教の形式的信仰の在り方をリアルに批判したものです。その中に、アフリカの原住民が崇拝する蛇のことが記されていました。
ゾルバは、本が大好きで頭の中で物事を考えるボスという男に対して言います。どうして蛇がアフリカの人々の信仰の対象になったのかわかりますか。蛇は体全体を大地に当ててはい回るからです。母なる大地をはい回りながら、その中に潜んでいるありとあらゆるものを体で吸収しながら生きます。無数の命が大地の中に存在しますが、蛇は、お腹で、尻尾で、頭でそれらに触れて味わい、自分の体全体に吸収して大地と一つになるのです。大地の秘密を知ることで体いっぱいに大地の知恵を養っているのです。ですから、蛇は知恵の神として、アフリカの原住民たちに神聖視され崇拝されているというのでした。
著者のカザンザキスは、自ら皮膚で感じて、骨が驚くような経験もないのに、人にまるでそれが正しいことのように教えるとか、そういう人に教えられたことを疑うこともなく信じるのは、罪に値するほど悪いことと厳しく批判しています。
この本を読んで、私は、イエス・キリストの「体の復活」について再び考えさせられました。私たちは、イエス・キリストの体の復活を信じる信仰に立たされています。しかし、私は、本当に大地に足を踏み入れて立っているのだろうか。踏み入れているつもりで、誰かの知識を踏み台とし、結局、さ迷うような立ち方をしているのではないだろうか。神を信じていると口では言うものの、今、自分が立っている場所は悪魔の誘惑の最中ではないだろうか。つまり、概念の世界で人生を論じ、信仰を論じ、人との関係や神さまとの関係を結ぼうとしていたりはしていないのかと振り返ったことでした。
聖書の言葉を読んだら、それを味わってみる、吟味するということを通して、それを自分の体の中に流しいれることが、骨や関節の栄養となるのだと思うのです。体が御言葉の栄養をいただいて喜び、謙遜に振る舞うことを信仰と言うのだと思うのです。詩編34編では、「味わい、見よ、主の恵み深さを。幸いな者、主に逃れる人は」(9節)と歌い、御言葉を味わい、その恵みを吟味する人のことを幸いな人と言います。この四旬節に、その幸いを生きる人になりたいです。
創世記3章にも蛇が登場しています。蛇は、人を自分の話に耳を傾けさせ、心の耳を開くように誘います。つまり蛇が女性に向かって言っているのは、神の戒められたことを鵜吞みするのではなく、自分で味わってみなさいということでした。それは、神の言葉を聞くために、心の耳を開きなさい、鈍い感覚を磨き上げなさいということです。神さまがそう言われたからそうなるのではなく、自分の視点からもう一度読み直し、観察して味わう、それから自己責任のもとで判断するようにという勧めです。その作業の中でこそ真の知恵は生まれるからです。まことに知恵の神ソフィアに等しい賢者の勧めです。蛇の勧めを聞いた人に変化が現れました。聖書には、「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」と記され、「彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた」(創世記3:6)と記されています。人類初の人間は、ここで初めて、自分で見て、美しいと感じ、好ましいものと判断しています。自分の手で取って食べた時の味はどんなものだったのでしょうか。彼女は夫にも分け合って一緒に食べています。
ここで、私たちは、今までの偏見を捨てなければなりません。
「蛇に騙されたのは男ではなく女だったのだから女が悪い」とか、「男はバカだから女の言いなりになった」とか、「蛇は巧妙で悪のシンボルだ」など。このような偏見は、物事を二分化して考える人、好き嫌いの境界線をはっきり引いて生きる人の視点です。とても偏見的です。善と悪を分けて考え、男と女を分けて男は優等な性、女は劣等な性として位置づけます。善が悪を離れて存在することは出来ますでしょうか。男が女から切り離されれば男であり得るのでしょうか。互いは一つなのです。セットになってこそ存在するのです。光と闇の世界も同じく、この世のすべてのものは陰陽の関係で共存します。ですから、この創世記3章の物語に誰かの視点を固定化するのは危うい読み方になります。
もし、人が神の戒めを破らなかったとすれば、人は永遠にエデンの園に住み、限られた狭い世界で暮らしていたのでしょう。それが神の創造にふさわしい在り方なのでしょうか。人が自分の目で見て、美しく感じ、想像力を発揮して判断したからこそ、人類が世界に広がり、今、私たちがここにいるのです。蛇が男性ではなく女性を誘ったのは、感性を生かして体で味わい、美しさや賢さを見つめる力をもっていたからでしょう。ただ神がそう言ったからそうであるのではなく、禁じられた果実の味がどんなものか、甘いか酸っぱいか、苦いか、渋いか、自分で味わって体験し、自分の感覚で表現するということ、それが自立への道なのです。もちろん、その分、結果として起きることは自己責任のもとで淡々と受け止めなければなりません。二人が神さまの戒めを破った結果として、男性はパンを得るために汗を流すこと、女性は苦しみと共に新しい命を生み出すことが与えられました。あれこれと言い訳をして責任転嫁をしていましたが、二人はちゃんと結果を引き受けています。そして引き受けた結果は、神の罰ではなく、人間が人間として生きるための神さまからの祝福でした。自分が汗を流して得たときのパンの味は、ただでもらって食べるものとは異なります。苦しみを伴って私を産んだ母は、私が生まれたときの喜びは、彼女の人生の中で掛け替えのないものだったと、何度も聞きながら私は育ちました。神さまはご自分の戒めを守れない人間を呪ったのではなく、生きる喜びを味わいながら生きるように祝福されたのです。さらには、エバとアダムはエデンの園から追い出されたのではなく、新しい世界へ派遣されたのです。
その新しい世界は、今、私たちがいる世界です。そこに、神さまは一緒に出かけてくださいました。アダムとイブが派遣された新しい世界で、彼らが生んだ息子たちの間に殺人事件が起きるのですが、そこに神さまが共におられてそれを解決してくださっています。その神さまの姿を具体的に現わすために、イエスさまが私たちと共におられます。
マタイ福音書4章には、イエスさまが霊に導かれて荒れ野に入り、四十日四十夜断食をして過ごされたと記しされています。その荒れ野とは、私たちがいるこの世界のことです。そこでは、物事を二分化して考え、自分にとって好きか嫌いかで判断し、嫌いなものを取り除き、好きなものだけを近づけさせようとして互いの関係に壁を築きあげてしまいます。そこで人々は苦しみます。仲良くしたいのにどんどん関係がおかしくなっていく、どうしたらいいのかわからない、その私たちのただ中にイエスさまが来られました。そして、私たちの互いの関係を混乱させようとする悪の力に、神さまの言葉をもって向き合ってくださいます。「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言って、互いの関係を切り離そうとする悪の力に立ち向かっておられます。つまり、人を一つに、丸ごと受け止め、良し悪し両方が一つに包まれたそのあなたこそ本当のあなたであると言って、私たちを包んでくださる。神さまの言葉によって歩みなさいと、私たちを新しい世界へ送り出しておられます。
Youtubeもご視聴下さい。