変 容
2026年2月15日(日) 説教
主の変容主日
マタイによる福音書17章1~9節
変 容
先週の朝日新聞の天声人語の欄に、独特な時計を作っている人の紹介がありました。千葉の船橋市在住の菊野昌宏さんという方ですが、彼は、年単位の時間をかけ、世界で一つの時計を手作りしている独立時計師と書かれていました。
今、私たちは、60分が一時間で、一日24時間という時の刻み方の中で生きています。その中では、何分何秒という分け方をしながら動きます。乗り物の時刻や学校のチャイム、もっと先端科学の世界になると、一秒が違うだけで大変なことが起こります。おかげで緊急の患者が助かったりします。しかし、都会のほとんどの人は時間に追われています。
一方で、昔の人の時間の割り方は今とは異なっていたのです。明治になるまでの日本では、一日が24時間という時の概念はなかったので、何分、何秒という数え方もありません。江戸時代には夜明けと日暮れを境に、一日を昼と夜に分け、十二支などで表しました。季節によって昼と夜の長さは変化し、それに合わせて十二支が示す時間の長さも伸びたり縮んだりでした。そういう揺れ動く江戸の時刻がわかる腕時計を菊野さんは作っているのです。
私はその記事を読みながら、詩編84編の一節を思い出しました。「あなたの庭で過ごす一日は/私の選んだ千日にもまさる」という句ですが、神の時を表しています。神の時の中の一日は、人間が一所懸命に生きる千日にもまさるほど平和で、幸いな流れであるということです。ですから、ほんとうの意味でその流れの中に預かるときに、人は、癒されるのでしょう。そこでは過去と未来がなく、今だけが存在します。今の私、今のあなた、互いに交わしたときの手の冷たさや温かさ、今昇ってきた太陽の温もり、今吹く風、その風にあたる耳や頬っぺたの冷たさや涼しさ、今、口の中にある食べ物の食感や香り、それらと私が一つである。風が私であり、私が風である。私が空気であり、空気が私である。今、私と共に存在しているそれらと一つになって、それらによって支えられている自分を知る。とても素朴ですが、ほんとうにその世界を生きられれば恍惚とさえ思える時の中を生きているのがわかります。
江戸時代の人々、またはもっと昔の人々はこのような豊かな時の中を生きていたのでしょう。きっとそこでは信仰理解も異なります。夜になると真っ暗闇の中で、道の先が見えない、その中を歩く人には、歩く道を照らしていただく灯りが欠かせません。ですから、あなたの光でこの暗闇を照らしてくださいと祈りつつ、自分の道を神さまに委ねる、実際に歩む道と信仰の道がつながっていた。今の私たちは、田舎の森の深い所や山の中に入れば別ですが、外が暗すぎて道が見えず歩けなかったと思うようなことはあまりないのです。そういう昔の人の生き方から考えると、私たちはあまりにも遠くまで来てしまったかもしれません。経済成長の波に乗せられて、考え方や人と人との関係性、私たち一人ひとりの生き方が、進む文明の波によって動かされてしまいました。
先ほど読まれた福音書を黙想していて、私は、昔の時刻の流れのような、神の時が流れているように思いました。ペトロとヤコブとヨハネがイエスさまに連れられて登った高い山です。頂上にまで登ったのでしょう。そこで、彼らが見ている前で、イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。そこへ、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合い始めました。まるでタイムマシンにのって時代を逆戻りした感じです。しかし、時は、今、です。夢の中でもなく、現実です。山に登るときに激しく動いていた心臓の音がまだ収まっていない時です。モーセとエリヤが光り輝くイエスと語り合っています。これから受けられる十字架の苦難と復活についてです。この高い山の頂上には、過去と、現在と、未来が共存しています。過去とは、モーセとエリヤがそこにいること、未来とは、イエスがこれから受けられる受難と復活のことが話されていること。ここでイエスさまの顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。この輝きは復活の輝きの先取りとして理解することができます。恍惚な時、神の時です。連れていかれた弟子たちは、あっけにとられましたが、しかし、すべてを見届けています。証人です。
私たちもこの三人のように、信仰生活の中で、過去と未来と現在が共存する神の時の中に預けられるときがあります。いつだと思いますか。それは、礼拝の場です。今です。礼拝の中のみ言葉と聖餐に預かるとき、私たちは神の時の中に預けられているのです。今という時の中で、過去の預言者たちに会い、御言葉が解き明かす先へと心の目を向けさせられます。もう一つは聖餐の場です。
私たちの教会では月に2回聖餐式が行われます。聖餐式には多様な意味があります。神への感謝としての聖餐、キリストの記念と想起としての聖餐、聖霊を求める祈りとしての聖餐、信徒の交わりとしての聖餐、神の国の食事としての聖餐という意味をもっています。聖餐の中にはこれだけ豊かな意味が込められています。
これらの多様な意味の中の一つ、神の国の食事としての聖餐のことを考えてみましょう。私たちが聖餐式に預かるとき、私たちは、神の国における喜ばしき祝宴の先取りの場に預かることになります。すでに召された方々と一緒に集い、いっしょに祝宴のときを過ごしているのです。そう思うと、その場がどんなに豊かで、神の国の食卓がどれだけ広いかがわかります。今生きている教会の仲間たちと共に、すでに召された信仰の先輩や家族とイエス・キリストの食卓を囲んでいる。その時は、まさに過去と未来が、今、という聖餐の場に共存する、神の時なのです。聖餐は、洗礼を受けたという徴ではありません。ペトロとヤコブとヨハネが連れていかれた高い山に、私たちも、少なくても毎月2回は登っているということです。彼らが全て起きていることを見届けていたように、私たちも見て、五感で感じ、体験しています。それらを証する証人であることを忘れてはなりません。
しかし、イエスさまは、彼らに、「『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない』」(9節)と命じられました。
それは、見たからすぐ言い広める、証人とはそういう人のことではないようです。彼らが山の上で見た、あまりにも素晴らしい光景に圧倒されて頓珍漢なことを言っているように、見えている出来事と受け止める器が一つでなければ、目撃したことの証人にはなれないということでしょう。ペトロもヤコブもヨハネも、まだその神秘を自分の物語として語り伝える器ではなかった。しかし、イエス・キリストの十字架の死の前で自分たちの弱さをことごとく知らされ、深い挫折を味わった彼らは、それまでに自分たちが見たことを大胆に語り伝え、殉教する証人としての働きを全うしました。
今日高い山での主の変容は、その出来事に預かる人も、やがて自分の深い闇の中に預けられていた神秘に気づき、それを面に出して、語り伝える人となって行く、変容した姿を取って主の証人となって行くということをも含めていると思うのです。
こういう話があります。
神さまが、人間が怖くて隠れ場を探していました。神さまが人間を怖がっている理由は、大勢になった人間がみんな、欲望が膨らんで、あれを下さい、これを下さい、ああしてください、こうしてくださいと強請ってばかりいたからです。本当は、神に代わっていろいろと託そうと思って作った人間が、自分のことしか考えない。もう疲れ切った神は人間が怖いとさえ思うようになりました。それで、隠れる場を探していたのです。隠れ場の一番は、世界でもっとも高いエベレスト山の頂でした。しかし、よく考えると、最近トレッキングブームでエベレストが人間に人気だからすぐばれると思いそこは諦めました。二番目に思いついた場所は火星です。しかし、最近、人間の科学技術が先端を走っていて、火星にまで人工衛星を飛ばすようになったので、そこでもばれてしまうと思い、火星へ隠れるのもやめました。悩んだ末に神がいい場所として思いついたのは、人間の心の中でした。人間の心の中に隠れれば誰も探せないと、やっと安心なさったそうです。ジョークなようでジョークのように思えない話です。
私たちは、今、御言葉を聞いているときも、後から預かる聖餐式のときも、弟子たちが山の上で見たのと同じ光景に預かっています。そこは、人間と神が出会う神秘の場であり、死んだ者と生きている者が共に集う豊かな場、過去と未来が共存する今です。その場に私たちは何度預かっているのでしょうか。もうそろそろ隠れている神さまを外に出して証してもいいときではないでしょうか。つまり、あれこれを下さいという祈りから、神さまの器となって、神さまがなさろうとしていることを行っていく。
四旬節の前に主の変容主日が置かれているのは、自分の暗闇の中に隠れておられる神さまを探し出して出会い、自分を開示する時として四旬節を過ごすことを促すためではないかと思うのです。神さまは私たちの中に、私と共におられます。自分という器を通して隠れておられるその方を、イエスさまのように、そして、自分の弱さをことごとく知らされて証人となった弟子たちのように、この私を、神を現す器になりたいです。主の変容に自分を委ね、主のように変わっていくのを恐れない信仰の道を歩けますように。アーメン。
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