おめでとう、幸いな者!

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2026年2月1日(日) 説教

顕現後第3主日

マタイによる福音書5章1~12節

おめでとう、幸いな者!

 既に与えられていることに気づかず、あれもないこれもないという思いで不平不満を述べてしまう場合があります。今年の私個人としては、あるものをよりよく活用して生きることにしました。時や季節、空気、山や海の大自然、命、食べ物や着る物…たくさんのものが私を生きるために与えられているのに、ないと思い無駄な時を過ごしていたと思ったからです。

 実は、去年の暮に体調を崩して3日間寝込んでしまいました。熱が上がり、頭痛と吐き気で食欲がなくひたすら寝ていました。元気なときは、一人がずっといいと思っていたのですが、具合が悪くなると誰か傍にいてほしいと思いました。その時に気づいたのです。健康って私とずっと一緒にいてくれていた素晴らしい友達だったのだと。健康が伴われれば、仕事もできる、時間さえあればどこにでも行ける、おいしいものも食べられる。その健康がいなくなったとたん一人でいることの難しさを思うようになった。いつも一緒だったときは当たり前に思いその大切さに気づかなかった。そのために、私は、自分に合う友達を外からばかり探していたのです。

 必要なものはすでに与えられているということ。私たちには、生きるためのすべてが与えられているということです。それをどう管理して生きるか。つまり、自分の体と心で、与えられたものとどう向き合うのか、その基本的なことを怠って、私たちは、外のこと、つまり、家族のこと、仕事のこと、経済的なことに気を取られ、まるで必要なものは他者を通してどこか遠くから来るものだと思っていたりしないでしょうか。

 そして、キリストに結ばれ、キリストとの信頼の道を歩むようにされている私たちには、この世でどんなに努力しても得ることのできないすばらしい神の国が与えられているのです。神さまは、与えられている体と心をもって、キリストが示された神の国を生きるように私たちを主の洗礼へと導いてくださいました。神の国を生きるためです。そこにはこの世にはない癒しがあり、知恵があり、本当の愛があります。それを自分のものとして生きる限り、私たちは、あれもこれもという思いで、外から満たされようとする生き方はしなくなるのでしょう。

 その具体的な生き方について本日イエスさまは山の上で説教してくださっています。

 『心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる。

へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである/その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る。

平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。

私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。』(マタイ5:3~10)

 「幸い」とは、ほかの表現では「幸福」といいます。幸福とは祝福のことです。原語のギリシャ語も、どちらにも訳せる言葉が使われています。

 そして、もっと大切なことが聖書の翻訳がどんどん進むことによって曖昧にされているように思います。ここでイエスさまは、幸福になる方法や、幸福の定義を教えようとしておられないということです。つまり、貧しくなる方法や悲しみの定義、義を求めるための姿勢、迫害を上手に受けることについてなどを教えておられないということです。

 そうではなく、ここでイエスさまが説教しておられることを一言にまとめるなら、「おめでとう、あなたがたは幸いな者ですよ!」と宣言してくださっていると言えます。つまり、「幸福」はすでにあなたがたに与えられている、あなたのものだ。あなたはそれを生きればいい、幸いを生きる者としてあなたは招かれているということです。つまりそれは、あなたがたには貧しさや悲しみや謙遜、渇き、憐れみのただ中を生きて来たし、今も生きていて、これからも生きることになるということです。

 しかし、私たちは、この世で身についた概念の中で神の国の幸いを捉え、幸福とは経済的な豊かさであり、家族に恵まれること、いい仕事に就くことだと理解していないでしょうか。そうやってこの世の価値観の中から神の国の幸いを見出そうとしますから、イエスさまのお勧めとは矛盾する歩みをしてしまいます。そこでは、納得のいかないことが多々置きますから、不平不満が絶えないのです。

 エジプトを出たイスラエルの民が、荒れ野で、神さまの栄光を見たときには神さまの言葉に従い、リーダーのモーセにも従うことを約束しますが、飲む水がすぐ得られなかったり、食べ物が貧しかったりすると、エジプトでは肉の鍋とパンが満ち足りるほど食べられた。「エジプトにいた頃、ただで食べていた魚が忘れられない。きゅうりもすいかも、葱も玉葱もにんにくも」(民11:5)と言い、エジプトで死ねばよかったのに、荒れ野で飢え死にするために連れ出したのかと、モーセに不平不満を言うのでした。これを奴隷根性と言います。相互依存的になってしまっているので、体と心が神の国に向かって進みません。

 最近、韓国では、金のスプーンと土のスプーンという言葉が流行っているようです。スプーンとは家を現わしていますが、金のスプーンとは経済的に裕福な家に生まれた人で、土のスプーンは貧しい家に生まれた人のことを指します。

この言葉が流行るようになった社会の背景があります。韓国の社会の貧富の差の激しさを現しています。つまり、人の成功は、生まれる時から決まっているということです。裕福な家に生まれた人は自動的に成功の道を歩み、そうではない人は必死にがんばっても成功には追いつかない。金のスプーンの家に生まれた人と土のスプーンの家に生まれた人は決して同等にはなれないという意味も含まれています。このように、国が経済第一と掲げるとき、愛おしい人間関係が蔑ろにされ、互いに慈しみ合い、尊び合う心が奪われてしまいます。人間同士は不和になり、結局、人間がお金に操られる世界になってしまいます。

 私たちが暮らしている日本の社会は、今、政治家が選挙のために掲げる言葉を聞いてもわかるように、とっくにお金が物を語る世界になりました。貧富の差に多くの人が苦しんでいます。人間は、経済界が打ち出す経済政策の中の消費者の一人、物を消費する者として捉えられるようになっています。人間が経済界を動かしているようですが、実際はお金が人間を動かす世界です。資本主義の悲しみです。

 しかし、そういう社会のただ中に暮らす私たちの中にはいろいろの方がおられ、人って、外から見てわからないものだと思わされた出会いがありました。金のスプーンの家のような裕福なところで生まれ育ち、何一つ不便ではない暮らしをしているように見える人が、人生に多くの不満をもっていることを聞きます。その逆に、一人暮らしで貧しいなか大病を患っておられる方が、自分には数えきれないほど神さまから恵みが与えられた、とてもいい方々に巡り合い幸せと淡々と語っておられたのです。心より尊敬したくなりました。そのときパウロの言葉を思い出しました。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリ 1:29)と。この方は、十字架のキリストの道への招きを喜んで受けておられる方です。そして、自分に与えられるあれこれの苦しみに立ち向かうための力は、その十字架のキリストの道の延長線上を歩むときに発揮されるということを、存じておられる方だと思いました。まさに、「おめでとう、あなたは幸いな者ですよ!」と宣言してくださったイエスさまの声に聞き、与えられた幸いを限りなく生きておられるのだと思いました。見倣いたいです。

 私たちの教会の宣教はどうでしょうか。もしかしたら、資本主義の枠組みの中に安住してしまっていないでしょうか。もし、そうであれば、お金がなくなれば教会は立てなくなると言えませんか。神さまは、宣教のための必要を私たちに与えてくださいました。私たちはそれを信じて、気づくことです。気づいて歩み出せば、そのときに与えられたものは発揮されます。「おめでとう、あなたがたは幸いな者ですよ!」と宣言してくださるイエスさまのお言葉に教会の宣教を委ね、幸いな者が歩む道を歩いて行きましょう。

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