十字架の言葉

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2026年1月25日(日) 説教

顕現後第3主日

マタイによる福音書4章12~23節、1コリントの信徒への手紙1章10~18節

十字架の言葉

 昨日はキリスト教一致祈祷日の集まりが日本キリスト教団藤沢北教会にて行われ、行ってきました。藤沢北教会の最寄り駅は小田急線の六会日大前駅で、初めて降りた場所で新鮮な思いがしました。それに、何と、昨日、ずっと工事をしていた藤沢駅小田急線の二階の改札口が開通したのです。出来たばかりの新しい階段を歩いているという新鮮な思いでゆっくり歩きました。ああこれは歴史的な瞬間だと思うと、階段と、階段を踏む自分の足が一体感を生み出すような感覚になったのです。駅の階段をゆっくり歩くことがない私には不思議な体験でした。

 それに、一致祈祷日の礼拝の牧師の説教の中で今の混乱している世界の情勢が話されたのですが、その話を聞きながらある日の出来ことを思い出しました。先日、日帰りの温泉に行ったときのことですが、ウクライナから来たという人たちが何人かで来ていたのです。戦争によって世界に散らされた人たちと同じ湯の中につかっていると思うと不思議な気持ちになりました。もしロシアとウクライナが戦争していなければ、私は日本でウクライナの人に出会うことはなかったのかもしれない。しかも裸で、同じ湯の中で。最悪だと思うような状況のただ中にも、良いことがあるということですね。そして、世界がばらばらではなくつながっている、一つであるという気づきをさせていただいたその出来事を思い出したのでした。

 最近、イランでは、政府に対する不満のデモが複数の都市で起きていて、インターネットが強制的に遮断されているために正確な数字は分かりませんが、何千人という人が死んだというニュースが流れています。人権や生活を守るために立ち上がった人たちと政府側で弾圧する人たちが共に命を落としています。

 以前、1980年、韓国の光州でも若者たちが中心に軍事政権に対して立ち上がりました。そのとき、政府は軍人を送って光州を閉鎖し、数百人の若者たちを殺しました。当時はインターネットが普及されていない時代だったので、近隣の都市では光州で何が起きているのか知りませんでした。ノーベル文学賞を受賞したハンガンさんの小説「少年が来る」は、そのことを書いています。

 今のイランのこと、またはミャンマー軍事政権に対して立ち上がった民衆、香港の若者たち、そして、ハンガンさんが描いた韓国の光州の民衆化運動、正義のために命を惜しまず悪に立ち向かって出て行く若者たちの勇気にただただ頭が下がるばかりです。隠れていれば助かったのかもしれない。しかし、仲間が捕まって拷問を受け、殺されていくのに隠れているわけにはいかない。連帯感、正義感が彼らを立ち上がらせたのでしょう。

 イエスさまの時代、ローマの植民地下にあったイスラエルでも、神の国運動が、特にガリラヤ地方から起こりましたが、その都度弾圧を受けました。腐敗したヘロデ家の政治に対して、それに甘んじる宗教界に対して、若者を中心として民衆は立ち上がりました。洗礼者ヨハネやイエスさまの神の国運動もその中の一つです。少なくても、ヘロデ家と宗教界の人々にはそう映っていたのでしょう。特に、ヨハネははっきりとヘロデ・アンティパスが弟の妻であったヘロディアを妻に迎えたことを批判したために捕らえられ、へロディアと娘サロメの策略によって余儀なく首をはねられてしまいます。今日は、まだヨハネが生きている頃の話です。

 イエスさまは、ヨハネが捕らえられたと聞きガリラヤへ退かれますが、17節では、「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されています。「『悔い改めよ。天の国は近づいた』」、これは洗礼者ヨハネが述べ伝え始めたときの言葉です。誰が聞いても、イエスとヨハネは関係が深い、イエスはヨハネの仲間だと思われるような公生涯をスタートしておられます。結局、イエスさまも、神さまとの関係の捉え方が気に入らないと思った宗教界の偉い人たちから妬まれて、十字架刑に処せられます。しかし、恐れない。権力を恐れない。悪質な人間の企みを恐れない。正義の前から退かない。正しいと確信したことは、どんな状況であっても躊躇することなく実行する。軍事政権下で、人権や生活を守るために命を惜しまず闘ったあの若者たち、今も世界各地で闘っている人々から私はこのイエスさまの姿を見るのです。いったい、どこからその確固たる力は生まれるのでしょうか。

 そう、イエスさまはヨハネが捕らえられたという知らせを聞き、今だ、今が出ていくとき、ご自分の時が訪れたのだと悟られたのでしょう。そして、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と述べ伝え始める。折が良くても悪くても絶えず宣べ伝えなさいというパウロの言葉が聞こえます。

 国際法を無視して世界を荒れ狂わせ、民衆の声よりはエゴから出るわが声、さらには武器の誇りの声に聞いて動き出す政治家たち、そしてそういう社会、そのただ中に生きるキリスト者の一人として自分がどうあるべきか。さらには、イエス・キリストを主と告白する教会がどう立つべきか、今の世界から、今の日本の社会から、そして本日の福音は問いかけていると思うのです。

 しかし、そう問いかけられていると思いながらも立ち上がれない自分がいるのです。今の世界は自分が望んでいる世界ではない、自分が求めている世界へは到底到達できないという絶望感の中で、自分のエゴの世界に閉じこもろうとしている自分がいます。卑怯だと思うのです。

 さて、今日は礼拝後に総会が開かれて、今年の一年の宣教の歩みについて話し合われます。

 今年の宣教テーマは、イエスさまが十字架に付けられる前の日に、新しい戒めとして弟子たちに言われた言葉が選ばれています。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。私たちは愛し合う群れとして集められ、そして派遣されています。その愛は、イエスさまが私たちのために命を差し出してまで愛してくださった愛です。私たちが暗闇の力に振り回されず、光の中を歩けるように、私の暗闇に向かって立ち上がって来られるその愛です。その愛が抽象的に捉われてしまうのではなく、動く動詞にしていくこと。それが弟子として行う役割であるということです。私はこのイエスさまの新しい戒めを、イエスさまの十字架の言葉として受け止めています。イエスさまが十字架の上で述べられた言葉は七つあって、十字架の言葉というとその七つの言葉があげられるのですが、それに、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」を加えたい。それは、私たちが十字架のイエスさまを述べ伝える群れだからです。

 本日の第2朗読で拝読された1コリントの信徒への手紙の1章には、コリントの教会の状況がよく表わされています。「あなたがたの間に争いがあり、あなたがたはめいめい、『私はパウロに付く』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです」(1コリント1:11~12)。これがコリントの教会が置かれた状況でした。教会内で分裂が起きていたのです。自己主張が強い教会です。自己主張をすることが悪いというのではありませんが、人間のエゴのかたまりから出てくる自己主張は御言葉によって磨き上げられる必要があります。パウロはそういう人を心の割礼を受けていない人と言いますが、コリントの教会にそういう人が大勢いました。その状況をパウロは嘆いています。つまりそれは、コリントの教会は出ていくという力をもっていないということです。出ていくというのは、闘うために出ていくということです。弱い人を苛めることにノーと言うために、人の陰口や悪口を言う人にノーと言うために、不平不満の多い人の内面に積もっている傷を見つめるために、暴力に遭い倒れている人を助けるために近寄っていく、その力を発揮すること。その力を養うためにも、私たちはイエスさまの愛を実践していくのです。

 パウロは言います。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」と。それは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたイエスさまの言葉と同じです。具体的には、自分と異なる他者と手をつなぐということ。繋いだその手を通して自分の中にもたらされる喜びを味わうこと。それは、ただ座って上から降ってくるのを待つのではなく、自分が良いものとなって他者の弱さの中に入っていくということ。今年、私たちは、私たちの教会はそういう歩みをしていきたいです。

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