証(あかし)

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2026年1月18日(日 説教

顕現後第2主日

イザヤ49章1~7節、1コリント1:1~9節、ヨハネによる福音書1章29~42節

証(あかし)

 今日からキリスト教一致祈祷週間が始まりました。世界のカトリック教会とプロテスタント教会が教派を超えて一致を祈るために定められた1週間です。そのために、今年はアルメニア使徒教会が準備をしてくださいました。アルメニアには主の弟子タダイとバルトロマイが最初に福音を伝えたと言われていますが、世界で最も古く、301年にキリスト教を国教として認めている国です。アルメニア共和国が弾圧や迫害を受けて民族的な危機に遭っていたとき、教会が信仰をもって支えたことによって危機を乗り越えることができました。教会の信仰が民族を救ったのです。アルメニア使徒教会は、独立した教会で世界に散っているアルメニア人によって構成されていて、現在、約500万人の信者がいると言われます。

 そのアルメニア使徒教会が今年のキリスト教一致祈祷週間のために準備をしてくださった、テーマ聖句は、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望に与るようにと招かれているのと同じです」(エフェソ4:4)です。

 私たちの教会とアルメニア教会はあらゆる面において異なります。しかし、同じものが一つ、それは、イエス・キリストを私の救い主と告白していることです。ですから、私たちは、イエス・キリストという大きな木の枝としてつながっていて、キリストの福音を述べ伝えるという同じ召しに呼び出されているものです。

 そして、キリスト教一致祈祷週間の一日目の今日の聖書個所は、「そこで、主に結ばれている囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」(エフェソ4:1)です。パウロの言葉です。

 パウロは、この言葉を聞く私たちを、「神から招きを受けている者」として捉えています。とても嬉しい言葉ですよね。だんだんと歳を取って誰からも誘われなくなって寂しいという言葉をよく聞くのですが、神さまにあってはそうではないようです。この言葉から、神さまは歳を取った人をも誘っておられると受け取ることができます。この言葉が存在する限り、人は、何歳になっても神さまのお誘いを受けている者。神さまのお招きに預かっている者なのです。ですから、いつでもお誘いに応えるために準備をしていないといけません。お誘いしてくださる神さまにふさわしい恰好をして、神さまと一緒に踊る場では踊り、歌う場では歌い、言葉を述べる場では述べ、働く場では神さまのパートナーとして働く準備をしておく必要があります。パウロも勧めています。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」と。

 マタイ福音書の十人のおとめのたとえ話を思い出します。

 灯と共に油の準備をして訪れる花婿を迎えに出かけた五人の娘と、灯は持っていたが油の準備をしないで花婿を迎えに出かけた五人の娘の話です。花婿が定時に着いていれば油の用意をしていなかった娘たちも花婿を迎えることが出来ました。しかし問題は、花婿の到着が遅れたことでした。そのためには余分の油が必要でした。用意して来た五人の娘たちから油を分けてもらうことは出来ません。その油とは、花婿を迎えに出たその人だけが用意できるものだからです。パウロがエフェソの信徒たちに、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」と勧めているのはそのことでしょう。

 キリスト教一致祈祷週間の一日目を迎えて、このパウロの言葉に与りながら不思議と思ったのは、本日の旧約聖書のイザヤ書が同じことを記していることでした。

 先ほど拝読していただきました旧約聖書のイザヤ書49章の3節にはこう記されていました。「主は私に言われた『あなたは私の僕、イスラエル。私はあなたの中で私の栄光を現わす』」と。ここで言う「主は私に言われた」の「」とは、イザヤとも考えられますし、もう少し踏み入って考えれば「イエス・キリスト」と解釈することも出来ます。時と場合によって読み方が異なるかもしれませんが、私たち一人ひとりのことを指しているという読み方をお勧めします。祈りをもって読む場合は、むしろそう読むべきだと思います。聖書の中の登場人物は、イエスさま以外はすべて「」と読むことです。そういう読み方をするときに、私たちは聖書を私と神さまとの物語として読むことができます。そう読まないときに、聖書は、私とは関係のない他者の物語、登場人物の物語に過ぎなくなるのです。

 さて、神さまは、私たち一人ひとりのことを「私の僕」と呼んで、「『私はあなたの中で私の栄光を現わす』」とおっしゃいます。つまり、私たち一人ひとりは、神さまに、ご自分の栄光を現わす者としてすでに招きを受けているということです。ですから、私たちは神さまに聞くことが出来ます。「神さま、この私がどうやって神さまの栄光を現わすことが出来るでしょうか」と。こういう問いかけを通して、私たちは神さまに近づくことができます。私たちは子どものように問いかけることがとても大切です。頭で判断して片付けてしまわないで、先ずは、留まって、神さまに聞いてみるのです。

 母マリアもそうでした。御使いガブリエルが現れて、「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と言われたときに、「どうしてそんなことがありえましょうか」(ルカ1:34)と聞いています。聖書の書き方からは一度しか聞いていないように見えますが、マリアは納得するまで御使いとやり取りをしたのではないかと思うのです。それは、祈りの時間です。人が神さまを敬う姿勢です。どの誰よりも、何よりもまさって神さまは偉大であることを受け止める人の姿です。私には知らないことを神さまはご存じであることを認める姿、その姿を現すことで人の信仰は養われます。言われる言葉がわかるまで聞く、牧師にではなく神さまに聞くのです。

 御使いとのやり取りの中でマリアは納得がいくまで聞きました。それによってマリアは御使いからこういう返事を聞いています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」。そのときにそれが可能になる、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:35‐37)と。神の力の偉大さと、その偉大な力主の神があなたを必要としている、神さまがあなたを通してご自分の栄光を現そうとしているということを理解することができました。

 そうなのです。神さまの偉大な業は神さまがなさるのです。しかし、そのためには人が必要です。神さまは私たちを必要としておられます。ご自分の栄光を、私たちを通して現わそうとしておられます。その栄光が私たちを通して現れるときに、私たちは神さまを証する人、主の弟子になります。私たちが招きを受けてここにいるのはそのためです。

 しかし問題は、もう自分は誰からも誘われなくなったと嘆いている現実、その現実をそのまま生きているということです。それは、神さまのお招きを受けていることに自覚がないということです。自覚がないから心を開こうとしません。自分を生きるように与えられた体も、私のものと執着していますから、神さまの御用のために用いられることを拒みます。ましてや、この世にいる間に管理するように与えられた賜物や財産も、自分の物と思うから困っている人のために差し出すのを躊躇してしまうのです。

 今日、ヨハネ福音書では、アンデレがイエスさまのところに行って一泊して、信じるようになりました。それから兄弟のペトロを誘い、ペトロにイエスさまを紹介しています。ヨハネ福音書は弟子の順番がほかの福音書とは異なります。兄弟の中で、ペトロよりアンデレが先です。ヨハネやヤコブよりフィリポが先にイエスさまに呼ばれています(ヨハネ1:43-44)。

 確かに、イエス・キリストを述べ伝える働きをするためには、呼ばれていること、召し出されているという自覚が先行します。その召しがあって、次のステップに入ります。そしてその道は、起きてくるあらゆる困難をも乗り越える力が備えられていることが信じられる道です。

 アルメニア使徒教会や主の弟子たちはその道を歩きました。イエス・キリストの福音は今まで聞いたことのない新しい教えですから、それを受け入れたくない人たちから敵対視され、仲間はずれされるような迫害に遭います。しかし、母マリアはそれでも「はい」と言って受け入れたために、全世界の人々に幸いをもたらす人になりました。弟子たちが世界に出て行って福音を述べ伝えたために、アルメニア使徒教会のように、迫害に遭う民族を支えて共に苦難を乗り越え、神に栄光を帰す働きをする器が作り上げられました。

 私たちが自分に与えられた神さまの栄光、それは主の福音、人々を幸いへ導くもの、それを現わすときに、私たちの家族や隣人のみならず、世界が平和になります。そのために私たちは今日も神さまに招かれ、ここから遣わされてゆきます。福音を携えて隣人のもとへ遣わされてゆきましょう。

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