幼子のようにならなければ

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2026年1月11日(日) 説教

主の洗礼日

マタイによる福音書3章13~17節

幼子のようにならなければ

 教会生活をしているとひとり歩きしている言葉に気づかされます。正確な意味を知らずに使っている言葉があるのですが、たとえば、「教会は罪人の集まりである」という言葉です。皆さんも聞いたことがあると思います。しかし、改めて考えてみると、とても乱暴な言葉のように思います。どんな罪を犯したかを具体的に言えず罪人の群れの一人としてここにいるのは矛盾していると思うのです。「罪人」という言葉には、人は生まれながら罪深いという「原罪」の概念が含まれているのはわかります。それはそれで問わなければならない課題と思いますが、それにしても、「教会は罪人の集まりである」という、集まる一人ひとりに自覚のない言葉をひとり歩きさせてはならないと思うのです。知らないうちにそういう言葉が私たちの信仰理解を誤らせてしまうからです。

 聖書が言う罪人とは、神から遠く離れている人のことを指します。交通ルールを守らなかったとか、道徳的・倫理的なことに反したような、この世の法の下で審判を受けられるようなことではなく、平気で弱い人の権利を奪い、尊厳を傷つけるような人を聖書は「罪人」と言います。そしてそれは、人が富や権力のようなものと深い関係をもっているときに犯しやすいことなので、聖書は、この世の富や権力に注意するように勧めているわけです。そう考えるとき、教会に集まっている人なら、そのことに気づいている。気づきながらもなかなかクリアできないこともありますが、神さまとの関係の中でその自分と向き合おうとしているわけです。ですから、もう少し言葉の使い方に気を付けて、「教会は愛し合う人たちの集まり」とか、「赦し合う人たちの集まり」と言った方が、シンプルだと思うのです。

 教会の一員となるということはシンプルな人になることです。単純素朴さをイエス・キリストから学ぶ道、そのスタートが洗礼です。皆さんは洗礼を受けられたときに、勉強をなさったと思います。教会では洗礼を受ける決心をしたら、受ける前に教理の学びをします。鵠沼教会では、「ルターの小教理問答書」を学ぶことが義務付けられています。会員規則の中には、ルターの小教理問答書から学んで洗礼を受けた人が鵠沼教会の会員であるとはっきりと書かれています。ルターの小教理問答書は、十戒、信仰の告白、罪の告白と鍵の聖務、主の祈り、聖餐、洗礼と、六つのことでなっています。その中でルターは、人間の罪についてとても具体的に告発しています。つまり、人間のエゴが現す執着や身勝手さによって神を蔑ろにし、他者を傷つけることをルターは問っています。自分自身に対し、他者に対し、物や仕事に対してどれだけの自己中心的であるか、おごり高ぶる人間の有様を、ルターは小教理問答書を通して指摘しているのです。

 そういうどうしようもない自分が、イエス・キリストの洗礼に与ることが許されたということ。ですから、洗礼は罪の洗いであり、洗礼を受けた日からきれいになって、もう罪人ではなくなるというかもしれません。しかし、どうでしょうか。洗礼を受けたら自分のわがままはなくなりましたでしょうか。人のものを欲しがり、感情的になって人を傷つけたり、人と自分を比較して嬉しかったり落胆したりする、その自分はもういなくなりましたか。いいえ、洗礼の受ける前の私は洗礼を受けた後もそのままです。本当は、このような弱い自分は捨ててしまいたいのに捨てられない。

 しかし、変わったことがあります。以前は一人でした。以前は、自分一人で人生の重荷を背負って生きていましたが、洗礼を受けてから、その私と伴って、どこまでも一緒に歩いてくれる友ができました。イエス・キリストです。イエス・キリストは、私が、思わず人を傷つけたり、失敗を繰り返したりして醜い姿を現すその場に共にいて向き合ってくださり、私が背負っている罪という重荷を減らして身軽に歩けるように、新しい道を示してくださいます。その新しい道とは、自分の身勝手さによって離れていた神さまに戻る道、悔い改めの道です。その繰り返しの中で信仰者の歩みは成熟していくのです。自分の弱さを受け入れ、それをも自分として愛し、まっすぐに向き合うようになるのです。それが洗礼を受けた人とイエス・キリストの愛の絆なのです。

 しかし、以前はそう教えていませんでした。洗礼を受けるということは、イエス・キリストに自分のすべての罪を背負わせて身軽くなる、イエスがこの私の罪を背負ってくださると教えていました。その場合、人は自分の罪に対して責任を持たなくていいのです。このような理解は、旧約聖書の犠牲のささげものをささげて罪をチャラにするという理解から来ています。旧約聖書の祭儀では、人の罪を動物に負わせて、その動物を焼き尽くすささげものとしてささげることによって、人の犯した罪がチャラになるという理解をします。その理解を新約聖書の中にも適応し、イエス・キリストを人の罪を背負って屠られる小羊として捉えました。しかし、福音書のどこにもそう書かれているところはありません。

 本日は、主の洗礼日として礼拝を守っていますが、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けておられます。イエスさまが洗礼を受けられたのは、人の罪を背負うためではなく、罪人たちと共に生きるためでした。そうすることが、神さまが求めておられることだったからです。本日のマタイ福音書のイエスさまの言葉から申しますと、それが「正しいこと」だったのです。罪人たちと共に、罪人の一人として生きるために、罪人が受ける洗礼を受けておられる。

 当時、人々は、自分や家族が障害を持って生まれるとか病気になったりすると、自分の先祖が悪いことをしたからと教えられ、そう信じていました。

 しかしイエスさまは、そうではない。それは神の栄光を現わすためのものであるとおっしゃって、その病を良いものとして受け止めてくださいました。イエスさまは、人が抱えている知的・身体的障害、また体の病気のような弱さをも含めて、それがあなた自身であり、それは悪いものではないと言って、それまでなかった理解を示されたのです。さらには、病気や知的・身体的障害や貧しさ、不器用のような人の弱さのただ中には宝が隠されているということをも教えられました。それらの弱さは切り捨てるものではなく、神の栄光を現わすためのもの。つまり、イエスさまが証される神さまは、それらの弱さから希望を産み出し、暗闇のただ中から創り出す方、死のただ中から命を生み出す創造の神であると証されたのです。イエスさまが洗礼を受けられたのは、私たちをその創造主なる神に導くためであり、今、なお、私たちのただ中に共におられます。

 このイエスさまの後に私たちはついて行くのですが、それは、孤独を生きるということです。私たちは「孤独」という言葉を聞くと、避けたい思いが強いかもしれません。しかし、信仰の歩みは孤独な歩みでなければなりません。孤独の道とは、宝探しの道とも言えます。イエスさまは、神への栄光を現す歩みとおっしゃっておられます。とても具体的で体を生きる道です。つまり、平安を生きようとするときに、その平安が独り歩きしているのではなく、今置かれている辛いことのただ中に平安が共にあることに気づかされる道です。喜びを求めるときに、その喜びが、今置かれている悲しみのただ中にあることに気づかされる道、それが孤独の道です。孤独の道だというのは、それがこの世的な道の歩き方とは異なるからです。この世的価値観を生きる人には理解できない道になりますから、孤独な道なのです。しかし、イエスさまがご一緒です。ですから、神さまと交わる道になります。その道で私たちは喜びや平安という多くの恵みの宝を見つけます。ですから、憂いが絶えない私たちの日常には、隠された宝がそれだけ多いということです。神さまに栄光を帰すチャンスがそれだけ多くある。その道を歩む人が集まる教会がどうして「罪人の集まり」になるのでしょうか。「神の子どもたちの集まり」と言った方が適切だと思いませんか。子どもは宝探しが大好きだからです。

 昨年、私たちの教会では3名の幼子たちが洗礼を受けました。その中には一人の大人も予定していましたが、結局受けたのは幼子たちだけです。やはり、イエスさまの洗礼に結ばれるのは、幼子のようなものだと改めて思わされました。この世的な強さでは、純粋でシンプルなイエス・キリストの洗礼に預かることはできない。だから、大人は、洗礼を受ける前に十分な準備の期間を設ける必要があるのでしょう。

 幼子のようにならなければ神の国に入ることは出来ないのです。私たちの教会が、罪人の集まりではなく、「愛し合う人の集まり」、「赦し合う人の集まり」としてどんどん成熟していく、そのために果たすべき公な働きがあります。それは、互いの孤独に向かって話しかけることです。今悲しみの内にいる仲間がそのただ中にある喜びに気づくように、今辛い思いの中にいる仲間が、そのただ中にある平安に気づくように声をかけて一緒に孤独の道を歩む。そういう群れになれたらと思います。

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