難民イエス

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2025年12月28日(日)

降誕節第1主日

マタイによる福音書2章13~23節

難民イエス

今日は2025年の最後の主日礼拝です。皆さんにとってこの一年はどんな年でしたか。年の初めに計画されたことは適えられましたでしょうか。きっと、計画にもなかったことが起きたりして驚いたり戸惑ったりもしたことでしょう。そういうとき、ともすると、私たちは、実体のないものをつかんで奮闘してしまいます。そのために、与えられた365日を無駄使いしていたのかもしれない。今というときを生きていなかったのかもしれないとう反省があります。

 実体がないものというのは、人間の自我から出て来るものです。人の感情と結び合わされているものですが、悲しみや怒り、失望や絶望感、憂鬱、苦しみ、優越感や劣等感、これらを実体のないものと言います。逆に、ハッピーと感じるのも実体のないものです。好き嫌いと物事を分けて考えるのもエゴから出てくるものです。

 これらの感情を感じない世界ってあるのかと問われるかもしれませんが、聖書は常にそれを勧めています。まことの平和です。イエスさまが下さる平和は人間のエゴを超えるもので、感情的世界で味わうようなものではありません。起きてくる現象やそこにあるものをそのまま見つめ、受け止める世界です。その世界にいるときに今を生きていると言えましょう。

 今年の教会の宣教の歩みは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)のみ言葉の下で導かれました。私個人としては、この言葉が生きた言葉となって支えられ、どんなに慰められたのかわかりません。まさに、言が肉になったというヨハネ福音書1章をリアルに生きたときでした。

 教会としてはどうだったのでしょうか。喜ぶ人々の気持ちに共感し、悲しみや悔しい立場に立たされて困っている人々に寄り添った歩みができたのでしょうか。足りないところがたくさんあったと思いますが、イエスさまの祈りに委ねて、もう一度新たに歩み始めるチャンスが与えられることを祈るばかりです。

 さて、今日は『難民イエス』というテーマで御言葉を分かち合っていますが、生まれたばかりの幼子を連れた聖家族は、ヘロデを避けて夜逃げする形でエジプトへ逃れています。ヘロデ王が幼子を探しているというお告げがヨセフの夢にあったのです。どうしてヘロデ王が幼子を探しているのか。それは、東方から来た博士たちから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と聞かれたためでした。それで、ヘロデ王は、国の祭司長や律法学者たちを集めて、「メシアはどこに生まれることになっているのか」と聞いて調べさせたところ、「ユダヤのベツレヘムです」と、ミカの預言の中にちゃんと書かれていることがわかりました。「エフラタのベツレヘムよ あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために イスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。」(5:1)と書かれているのを祭司長たちは見つけたのです。

 ヘロデ王としては、自分以外の指導者が現れるのは死ぬことよりも嫌なことでした。なぜなら、ヘロデ王は劣等感の塊と言ってもいいくらい、その内面はいつも不安でいっぱいな人でした。つまり、彼は、正当なユダヤ人の血筋ではなく、エドム民族出身だったのです。当時、イスラエルを支配していたローマ帝国の将軍アントニウスによって、彼は、紀元前40年ごろ「ユダヤの王」に即位します。数名の妻がいて、そこからたくさんの子どもが生まれましたが、自分の王位が脅かされていると疑い、最愛の妻や息子たちを平気で殺す人でした。ましてや、聖書の預言の中に、ユダヤの王として生まれるメシア預言があって、それが、今、自分が権力を握っているときに実現したことがわかると、放っておくわけにはいかないのです。

 幸い、聖家族はヘロデ王の暴力から逃げることが出来ました。しかし、ベツレヘム周辺に生まれた2歳以下の男の子たちが皆殺されてしまいました。とても悲しいことです。それで、教会の暦の中では、ちょうど今日、12月28日を「命を奪われた幼子の日」として守っています。

 時が経ち、ヘロデ王の後を継いでユダヤ地方の領主になった息子アルケラオは、領主に即位してすぐ3千人以上のユダヤ人を神殿の聖域内に集めさせて殺すほど、父親以上に残酷な人でした。その残酷ぶりにローマ帝国側もお手上げしたのでしょうか。即位して10年足らずして、ローマ皇帝によって追放されています。

 聖家族が、ヘロデ大王が死んだ知らせを聞いても、アルケラオがその後を継いだのを聞いてユダヤに帰らず、ナザレの方に帰ったというのは、アルケラオがそれだけ暴君であることを良く知っての判断でした。

 人はどこまで残酷になれるか。その残酷さはどこから出てくるのか。

 この世界では今もなお、罪のない多くの人が殺されています。思想や信仰、政治的な立場、争いのゆえに、また、本来すべての人が平等であるはずにもかかわらず、人間が作り出した階級や地位のゆえに、迫害や命の危険にさらされています。何がそこまで人の命を軽々しく思わせ、平気で人の命を奪い取るようにしているのでしょうか。ヘロデ王やアルケラオの暴力性は、自分の血筋が正当ではない劣った民族であるというところからくる劣等感から来るものでした。劣等感は常に比較心理を働かせます。ユダヤ人とエドム人を比較し、ユダヤ人が選ばれた民族として優位にあるのが赦せなかったのです。

 今、世界で戦争を起こしている国々の指導者たち。名前を言わなくても皆さんの頭の中に浮かんでくる顔があると思いますが、その人たちもヘロデ家と同じく、劣等感の塊なのかもしれません。特に、今、兄弟のように近い関係同士が戦っているのです。韓国には、「いとこが土地を買ってもお腹が痛い」ということわざがあります。日本語で調べても、「人の成功を妬む」くらいしか出ていなく、同じことわざはないようでした。「いとこが土地を買ってもお腹が痛い」とは、従弟同士の関係は近いようで遠いことを現しています。今戦争をしているロシアとウクライナ、イスラエルとハマス、タイとカンボジア、みな従弟同士の関係です。ヘロデ王時代のイスラエルとエドム民族も、ヤコブとエサウの双子から分かれて行ったものですから近い関係でした。

 劣等感という一人の人の感情に振る舞わされて、あまりにも無惨に人の命が奪われている。今、ガザ地区では、一万を超える子どもたちが衣食住に困っていると報じられています。さらには、戦争によって、多くの人が、自分が本来生きたいと願う場所から逃れることを余儀なくされ、逃れた先においても、その社会の無理解や人々の偏見によって、生きる権利が蔑ろにされています。

 この人々と共に生きる道、この人々が抱えている困難を、私たちはどうやって分かち合うことが出来るのでしょうか。戦争とは関係のない人々の生きる権利が奪われているのに、何の声もあげられない、その無気力はどこから来るものかを考えてしまいます。

 そういう思いのただ中で抱かされる希望は、聖家族も、ヘロデの迫害と虐殺から逃れるために故郷を離れ、エジプトへ避難する生活を強いられていたということです。故郷を追われる人々の群れの中に聖家族が共におられるということ。命が危険にさらされている人々の傍にそっと寄り添い、その人々が抱えている恐怖や悲しみに御心を注いでくださっているということです。

 ですから、私たちも、この難民となられた主に従う者として、今日、難民としての立場を強いられている人々の痛みや苦しみに寄り添い、イエス・キリストの体としてともに生き、生きる権利を守る歩みに仕える者でありたいと願います。

 また、ヘロデの権力のようなものによって、犠牲になった多くの子どもたち、わが子を失って悲しむ母親たちの悲しみを分かち合いたいです。さらには、一部の人による富の独占、それによる環境の破壊、権力者たちの争いによって、食べ物や飲む水を得ることができず、命を落とす子どもたちも大勢いる。私たちが生きている今の世界の目に見える現実です。

 これらの人々との関わりを通して、私たちは、自分が病によって日常や家族、教会の群れから追い出されたり、権力や富を重んじる人々から傷つけられたりとしたことが癒され、自分の本当の居場所が見つかる、主の平和の中へ導かれてゆくようになるのでしょう。

 皆様が歩んで来られたこの一年の歩みが神さまに顧みられ、新年の新しい歩みへと導かれますように祈ります。アーメン。

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