下って行く生き方

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2025年12月24日(水) 説教

クリスマス燭火礼拝

ルカによる福音書2章1~20節

下って行く生き方

 国際サッカー連盟がトランプ大統領に「平和賞」を授与したことが新聞に載っていました。パレスチナ自治区のガザでの停戦や、カンボジアとタイの平和に向けた取り組みなどが評価されての受賞であると。ノーベル平和賞を渇望しているところに、平和賞をもらえたので嬉しかったのでしょう。受賞の思いをこう述べていました。「世界はより安全な場所になった。アメリカは今や世界で最も活気ある国だ」と。

 しかし、ほんとうにそうでしょうか。ほんとうに世界はより安全な場所になったのでしょうか。イスラエルとハマスが停戦したはずのガザ地区では、今、なお銃声が止みません。カンボジアとタイの衝突はエスカレートし、死者と負傷者の数は増え続けています。さらにアメリカは、ベネズエラとの戦争の可能性も考えていると言うことでした。このような、武力思考の政治家に平和賞が送られたのです。本当に世界が平和な場所になることを願うのなら、向き合う相手が、たとえ独裁者であっても、武力ではなく話し合いによって解決策を探すのではないでしょうか。

 権力や人間の欲望と結び合わされ、偽りの平和が蔓延していく世の中です。そこに私たちは暮らしています。その私たちには、本物の平和を現わす使命が与えられていると言えます。なぜなら、今、私たちは、平和の君として生まれたイエスの誕生をお祝いするためにここに招かれているからです。本物の平和。それは、武器や兵力にこそ力がある、便りがあるという人と対等に向き合う力です。イエスは非暴力主義でした。そのイエスの平和によって武装した人と向き合うことは非合理的で、ばかばかしくさえ思うかもしれません。しかし、その平和の中にしかキリストがおられないのなら、生まれた救い主がその道を示しておられるのなら、私たちもその道を歩くべきではないでしょうか。

 先ほど拝読された福音書の中のマリアも、ヨセフも、羊飼いたちも、生まれた救い主によって変えられました。自分の前に指し示された平和の道を歩み始めた人たちです。

 羊飼いたちは、「今宵ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使からの知らせをきいて驚きつつ、天軍天使の賛美の声に心はますます高揚していくばかりでした。天の大軍は歌います。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」(14節)と。

 この歌は、神への栄光と御心に適う人への平和がセットとなっています。羊飼いたちのことを御心に適う人と歌っています。救い主の誕生によって、神が栄光を受け、地上では羊飼いたちが真の平和を預かるのにふさわしい人とされました。

 当時、羊飼いという職業柄上、余儀なく受けている偏見や差別、汚いとか、臭いと言われて避けられ、神の救いからは遠い者と大勢から退けられていた人たち。羊飼いこそ御心に適う人である。真の平和を所有する資格がある人たちであると天の大軍は歌っています。一晩にして羊飼いたちの運命が変わりました。ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになった救い主のゆえに、彼らは、これから歩いたことのない道を歩くことになります。

 イスラエルの民の先祖は代々羊を飼う遊牧民でした。アブラハムの時代まで遡ってみると、遊牧民として転々とし、牧草地を求めて天幕を移して生きる民でした。さらには、家畜のみならず、子孫の繁栄や金銀にも恵まれた豊かな民でした。

 ところが、アブラハムの孫のヤコブの時代に、住んでいたカナンの地方が飢饉に見舞われ、穀物が取れなくなり、ヤコブ一家は十一番目の息子ヨセフが総理大臣として治めていたエジプトへ降っていきます。ヨセフと他の兄弟たちとの物語は、創世記37~48章まで、ドラマチックに書かれているので読んでみてください。このヨセフも夢を見て解釈する賜物を持っていました。エジプトの高官の家に奴隷として売られてから、ヨセフはその賜物によってエジプトの総理大臣にまでなります。そのヨセフに頼ってエジプトに下ったヤコブ一家は、ゴシェンという場所に住むことが許されました。ゴシェンは地中海に面していて、都会からは離れたところです。ヤコブ一家は羊や家畜を飼っていたので、息子ヨセフがいる近くで暮らすことは出来ませんでした。

 それからヨセフが死に、ヨセフを知らない人が王になり、ゴシェンに住むイスラエルの人々は段々とエジプトの奴隷化されてゆき、エジプト人から「ヘブライ人」と呼ばれるようになります。「ヘブライ人」という呼び方は、見下した呼び方でした。家畜を飼って生きる民であることが、偏見の対象になったのでしょう。

 エジプトで受けていた「ヘブライ人」への偏見と差別は、イスラエルの民がエジプトを出てカナンの地に入り、国を形成していくにつれ、家畜を飼う人とそうではない人との間に壁として置かれます。羊を飼う仕事に従事する人たちは、子々孫々に差別を受ける立場に置かれました。日本の部落民差別と同じです。

 今宵、ダビデの町ベツレヘムの家畜小屋で、救い主がお生まれになった。住民登録のために訪れたヨセフの故郷のベツレヘムで、マリアとヨセフは、泊まる所がなく家畜小屋だったのですが、もっと踏み入って考えると、羊飼いたちのような、最も底辺に生きる人々の仲間であることを現すために、汚く、きつい匂いがする家畜小屋を、産声を上げる場所として選んだと言えないでしょうか。すなわち、そこが神さまの救いの業のレベルであるということです。低い、最も低いのです。人々は大切だと思うものをキラキラしているところから探しますが、神さまは、最底辺から大切なものを見つけ出し出します。人は、出来ることなら避けたいと思う所を、神さまは積極的に選びだし、そこから可能性を生み出される方です。

 羊飼いたち自身も、できることならその暮らしを捨てて、きれいなところで香水のような香りに包まれた生活を求めていたのかもしれません。しかし、もし、彼らがそこから出て行って都会で就職先を探したとしても、都会の人たちは羊飼い出身を受け入れますでしょうか。これは、韓国にも、日本にも昔からあってなくならないことです。名字や出身地域によって差別される。そのために、名字を変えたり、出身地を隠したりする世界。未だにその世界は依然として存在します。

 羊飼いたちは、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉を確認するために、時を移さずベツレヘムの家畜小屋を訪ねました。そして、マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てます。天使が告げたとおりでした。彼らは、野原で起きたことをすべて人々に話します。そして、帰りの道で、羊飼いたちは神を崇め、賛美しながら帰って行ったと聖書は記しています。

 何年ぶりなのだろう。神を崇め、神を賛美したこと、いつ以来だったのだろう。親に言われてでもなく、周りに勧められてでもなく、自ら、体の深いどころから湧き上がってくる賛美を声高らかに歌ったこと、人生の中で初めてなのかもしれない。夜空に向かって、高くいます方に向かって羊飼いたちは神をほめたたえています。

 都会に行かなくてもいい、名字を変えなくても、出身地を隠さなくても、職業を変えなくてもいい、羊飼いのままでいい。ありのままの自分でいい。都会のキラキラや、経済的豊かさ、権力や社会的地位のようなものからくる偽っぽい幸せより、もっといいものがあることに彼らは気づいたのでした。そして、最も底辺にまで降りて来てくださった神さまに出会えたここ、この場所でよかったと、彼らは、羊飼いの身分に感謝したのではないでしょうか。

 昇っていくのではなく下っていくのです。一つ二つと付け加えていくのではなく、一つ二つと減らしていくのです。どんなものでも、どんなことでも、シンプルになって行く、そこで私たちは降ってこられた神さまに出会います。その場所で、偽りの平和ではなく、真の平和をいただくにふさわしい人、御心に適う人となって、神に栄光を帰す道を歩き始めるようになります。さあ、まことの平和の道が家畜小屋の飼い葉桶の救い主から示されました。その道を一緒に歩き出しましょう。

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