インマヌエル
2025年12月21日(日) 説教
待降節第4主日
マタイによる福音書1章18~25節
インマヌエル
この頃、日の出が遅いので、朝の散歩のときはまだ暗いのです。先週は月が欠けていくときで、少しずつ欠けて細くなっていく月が物寂しく見えて、何とも言えない思いでした。このことは毎年繰り返されることではありますが、冬の寒い夜空に細々と欠けていくお月様の様子は切実な思いになります。
今は、一年の中で最も闇が深いとき、月は欠けつつクリスマスは近づいて来る。クリスマスは、闇が最も深い時の出来事です。驚くことは、闇を照らす光の救い主を迎えることが私たちに許されているということです。それがどんなに感謝すべきことなのか。散歩道で欠けていく月を見ながら思わされます。
私たちも、月のように、時々、自分が欠けていくときを迎えます。あるときは、一日何度も暗闇の中をさ迷ってしまう場合があるのです。自分自身との関係の中で、または家族や近い人との関係の中で、弱い自分が表に出てしまう、その時は自分が欠けるときですね。しかし、確かなことは、その私に向かってクリスマスが近づいているということです。さらには、そのどうしようもない私の弱さを通して、クリスマスが祝われる。私の弱さという闇こそが光を証するところだからです。
ですから、クリスマスはきれい事ではありません。私が見たくもなく、見ようともしない嫌なところがリアルに用いられるからです。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活も同じです。私の弱さがキリストを十字架に付けていくと同時にその弱さを通してキリストが復活なさる。つまり、古い自分が死に新しい自分に生き返るという出来事がクリスマスでありイースターであるということです。ですから、今、私たちは、人生の転換点に立たされているとも言えます。
しかし、それは、私一人で信仰的な責任をもって行うということではありません。神さまの介入なしには不可能なことです。神さまと私の共同作業になります。
先ほど拝読された福音書にも、神さまの介入によって人生が変えられるカップルが登場しています。マリアとヨセフのカップルでした。ヨセフは夢を見る賜物を神さまから授かっている人です。さらに、ヨセフについて聖書は「正しい人」と記していますが、それは、ヨセフが律法の教えを純粋に守っている人という意味です。しかし、ファリサイ派の人たちのように威張ったりして偉そうな守り方ではなく、天使が伝える神の言葉に心を開くことのできる、姿勢の低い人でやさしい人であり、福音書に描かれていることから内省的な人だったのではないかと思います。
ヨセフとマリアが福音書に紹介されるのは、二人が婚約をしている状態のときからです。イスラエルでは、婚約をすると法的には夫婦同様にみなされます。しかし、結婚式を挙げるまで夫婦関係は認めず、純潔を保つことが求められました。ですから、この期間は二人にとって大事なときになります。しかし、あまりにも突然なことで、マリアが身ごもったという知らせがヨセフに届きます。困りました。その性格上ヨセフはかなり悩んだのではないでしょうか。普通は、相手の男の人を探し出して、二人とも石打刑に処せるべきですが、ヨセフは、それは望みませんでした。彼が下した決断は、マリアと密かに別れることでした。それがマリアとお腹の子を守ることだと考えたのかもしれません。しかし、マリアは、離縁されてもお腹は段々大きくなってくることですし、それがヨセフの子ではないことがわかれば、石打ち刑に処せられます(申22:13~24)。ですから、密かに離縁しようとしたヨセフの決断はマリアとお腹の子を守ることにはなりません。
マリアと密かに離縁しようと決断をした夜、ヨセフは夢の中で天使からお告げを聞きます。『ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。』(20節)。婚約は結婚と同じく見なす律法の理解を組んでこの行を翻訳し直すと、こうなります。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎えなさい。』『マリアを妻に迎えなさい。』というより、『妻マリアを迎えなさい』と訳した方が、律法通りの訳になるのではないかと思います。
ヨセフは、天使のお告げを聞いて下した決断を取り下げ、マリアを迎えました。
私はこの場面にまでくると、いったいこのヨセフは何者なのだろうと思ってしまいます。というのは、はじめに、マリアが身ごもったと聞いたときには、マリアにほかの男が出来たと思っていた。しかし、天使のお告げを通して、人間ではなく、ほかの第三者が自分たちの間に介入してきていたことがわかりました。いたずらではありませんが、二人が知らないうちに第三者が二人の人生に介入してきたのです。とても大事な時期に、二人の意見を聞くこともなく、第三者によって二人の将来が勝手に動かされている。ヨセフが、本当に律法を重んじる男だったら、妻は「自分のもの」という考え方になるわけですから、「何で自分の妻を勝手に使うのか」とか、「事前に一言相談してほしかった」とか、抵抗してもいいと思うのです。
しかし、ヨセフは、驚くこともなければ、反抗する姿もありません。天使のことばを黙々と聞いています。しかも夢の中のお告げなのに、何の疑いもなく聞いた通り動いているのです。
それは、この場面だけではありません。ルカ福音書でも、住民登録のためにナザレからベツレヘムまでの旅のときも、ヘロデ王に幼子の命が狙われてエジプトへ逃げるときも、時が経って、エジプトからナザレに帰ってくるときも、ひたすら聞いたことを行動に移すだけです。一言の返事など、聖書のどこにも父ヨセフの声はありません。そしてその後、ヨセフは聖書からその姿が現れなくなりますが、最後まで口を開くことなく、その役割が終わると舞台から退かれていきます。イエスが生まれてからマリアの間にさらに数名の子どもが生まれますが、家族ぐるみで動くときも、家族の中にヨセフの姿はありません。ヨセフの仕事が大工さんだったということも、イエスが大工の家に生まれたことを通して知るばかりで、ヨセフがどんな物を作っていたかなど、私たちは知りません。物事を表ざたにすることを望まない彼の性格的なことが彼自身の生き方にも適応されています。マリアとイエスの物語の中に隠れて秘かに生きることがヨセフの幸いだったのでしょうか。いったい、このヨセフは何者なのでしょうか。
確かなことは、ヨセフのような、物静かで、目立たなく、リーダーシップも取れなければ、不当な扱いに対して声を上げるようなこともしない、地味な人を通して神の大いなる業が実現していくということです。そこで大いに活用されているは、その人の賜物でした。ヨセフの賜物は夢を見ることです。大切なことはすべて夢の中で告げられます。夢の中のお告げだったら、ほかの人にばれる心配もありません。夢を見る賜物が大いに用いられている。きっと、ヨセフは、自分の賜物を通して神さまが自分と共に居てくださっている、その確信のもとに生きる人だったのではないでしょうか。神さまからの賜物だけは宝のように彼の存在を現しています。
インマヌエル、神が私たちたちと共におられるという名を持つ方が、ヨセフのような、静かに、黙々と用いられる人の優しさを通して生まれます。
あまりにも言葉が氾濫する時代を生きる私たちのただ中に生まれます。溢れる情報で、何が本当に正しいものかも知らずに受け入れ、結局、情報に振り回されて右に行ったり左に行ったりしている、その私たちの歩みを確かなものとするためにお生まれになります。
そして、ほんとうに大切なものは、神さまによって与えられた賜物であるという、洗礼を受けたときに私たちはその賜物に気づいたのではないでしょうか。神さまが私たちと一緒におられる証拠は、私たちの賜物を通してです。今日、洗礼を受ける幼子たちを通して、私たちは、自分の洗礼を思い起こし、純粋な心に響いていた御言葉や聖書の登場人物たちのことを思い出してみたいのです。そして、もし、これから洗礼を受けたいと思っておられる方がいらっしゃれば、今、自分の心に響く聖書の言葉に心を開いてみませんか。聖書の登場人物に神さまがどのように働きかけておられるかを観察してもいいかもしれません。
神さまは、御言葉を通して、そして御言葉に生きる人々を通して私たちの人生に介入して来られます。なぜなら、ご自分の愛の交わりを作って行くために私たちが必要だからです。神さまの必要に「はい!」と答えて、ありのままの自分を差し出して光の道を歩みましょう。
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