道づくり

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2025年12月7日(日) 説教

待降節第2主日

マタイによる福音書3章1~12節

道づくり

 朝日新聞の天声人語欄(㏠)に、アメリカの黒人の一人の女性のことが載っていました。ローザ・パークスさん。今から約70年前のアメリカの話です。仕事を終えて帰るバスの中で、白人に席を譲らなかったことで彼女は警察に逮捕されます。この事件は黒人の権利を訴えるための機会となりました。当時、42歳だった彼女は、その後、「公民権運動の母」と呼ばれ、92歳で亡くなりました。

 この記事の中に、「何でも見てやろう」という本の著者小田実さんの記事が紹介されていました。同じ年代の1950年代に著者がアメリカを旅していたときの話です。バスの待合室が白人と黒人に分かれていて、白人が使う所は清潔で黒人が使う所は狭く汚かった。当時、日本人は白人に差別されていたけれど、待合室は白人と同じ場所を使うことができた。そのことに不快感を抱きながらもホッとした。そのときの自分の気持ちを率直に述べていました。つまり、白人の目で黒人を見始めている自分に気づいたと。「ひょっとしたら、私はユカイであったのかもしれない」と。人は容易に差別する側に立ち、ときに驚くほど差別される側の痛みに鈍感になるものだと述べていました。

 それから70年が過ぎた今でも差別は無くなりません。フランスでは、特にアジア系の人たちが差別を受けているというニュースがありました。フランスで生まれ育った人で大学院を卒業しても、履歴書に書いたアジア系の名前が理由で「フランス語が話せるか」と言われて採用されなかったり、勤め先で昇給を認めてもらえなかったりする。学校や職場、家探しなどの日常生活の中で様々な差別を受けているというのです。

私たちが暮らしている日本の社会はどうでしょうか。あまり変わらないと思います。私自身がそうです。差別される側にいる人の痛み、または、戦争の犠牲者たちが余儀なく受けなければならない痛みに、ますます鈍感になっていることに気づきます。世界がグローバル化し、インターネット環境が整ってきているにつれ、現地の状況が以前より知らされるようになりましたが、具体的に動こうとしないのです。自己さえよければという個人主義に陥っているのです。

 このような意識は、一般社会のみならず宗教界の中にも浸透してきました。いいえ、宗教界だからこそ偏見と差別意識は絶えず、神の名によって戦争を起こし、多くの人を犠牲にしても罪が問われない世界です。イエスさまが生まれる当時のユダヤ教もそうでした。教会が平気で礼拝に預かれる人と預かれない人を分け、救われる人と救われない人を決めつける。宗教指導者たちは、自分の立場が安全であれば、教会から虐げられている人のことには関心がない世界でした。

 さて、今日は洗礼者ヨハネを通して救い主の来られる道を備える日です。洗礼者ヨハネは旧約聖書の最後の預言者とも言われる人で、旧約聖書の預言者たちの預言を生まれる救い主に結び付ける役割を果たしています。ですから、洗礼者ヨハネがいなかったら、来るべき救い主の道がどのように備えられたのかわからない、それくらい大事な人です。そして、彼は「荒れ野で叫ぶ声」と呼ばれ、イザヤの預言の中に登場しています。本日、そのイザヤの預言が引用されています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』」と。「主の道」、それは救い主が来られる道です。つまり、救い主が来られる道はまだ開かれていなく、人々はその道を知らなかった。ですから、救い主を迎えるためにはその道を作らなければなりません。

 昔の韓国の話です。

 山奥の田舎のある村に、年老いた父親の世話をしている乙女がいました。その評判が良く、都の王様にまで届き、王様は彼女に何か良い物を贈ろうと家来を送ります。ところが、その娘さんはこう言うのでした。「私に必要な物は何もありません。ただ、本当に王様が贈り物をくださるのでしたら、王様ご自身が一度だけこの家に来てくださるようにお願いします。王様をもてなすこと、それが私にとって贈り物になります」と。

 彼女の願いは王様に聞き入れられ、王様は山奥の村へ行く仕度を始めます。つまり、都からその村までの道は凸凹だったので、王様ご一行が行きやすく道は平らになり、娘と父親が住んでいたボロボロの家に王様が泊まれるように建て直されました。そして、村全体がきれいに整えられました。

 この話にはいろいろな意味が込められています。彼女はただ親を世話する孝女であるだけでなく、深い洞察力をもった知恵の女性です。王様からの贈り物をそのままもらっていれば、彼女と父親の暮らしは良くなったのかもしれません。しかし、彼女は王様を自分の家にお招きしました。田舎の小さな村の名もない女の子が、国の王様を動かしたのです。それによって、王様からの贈り物の価値は何倍にも増し、彼女や父親だけでなく、村や村人にとっても素晴らしい贈り物をいただいたことになりました。

 まさに、クリスマスは、神さまが私たちに贈り物をくださるときです。「救い主」という贈り物が私たちのために備えられています。神さまは無条件に私たちに「救い主」をくださるのです。私たちはどのようにして備えられたプレゼントをいただくのでしょうか。救い主が私にまで来られる、そのためには神さまと私との間に通じる道が必要です。道がなければ、どんなに素晴らしいプレゼントが用意されているとしても、私とは関係のないものになります。その私たちのために、今日、洗礼者ヨハネが叫んでいるのです。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』と。

 しかし、ヨルダン川で洗礼を授けているヨハネの前に、ファリサイ派やサドガイ派の人たちも列を組んでいました。その様子を見たヨハネは厳しく叱ります。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」(7-9節)と。ファリサイ派もサドガイ派も、自分たちはアブラハムの子孫であるということに安住し、誇りを持っている人たちでした。自分たちだけが救われるべく選ばれているという選民思想も、そこから出てきた面もあるでしょう。しかし、ルカ福音書に書かれている金持ちとラザロの物語は、そのことを見事にひっくり返しています。死んでからアブラハムのもとに行ったのは、アブラハムの子孫であることに安住していた金持ちではなく、その金持ちの門前で物乞いをしていたラザロでした(ルカ16:19‐31)。

 今日、ヨハネも「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」と厳しい声をあげています。つまり、神の救いの業は、選民思想的な人間側の都合によってもたらされて完成するものではないということです。そういう人間側の都合は、今日の福音書の中のヨハネの言葉にあるように、消えない火で焼き払われるもみ殻のようなものだということ。神さまが送ってくださる救い主が施す聖霊と火の洗礼によって、人間側の誇りは焼き払われるということ。そして同時に、神の救いから遠いと退けられ、余儀なく偏見と差別に耐えていた人たちに神の国の扉が開かれるということ。

 さて、私たちはどこに立っているのでしょうか。選民意識の中のファリサイ派やサドガイ派の人たちの中でしょうか。白人の視点から黒人を見、退けられている人々の痛みに鈍くなりつつある、私自身はそう思うのです。私のために注がれる神さまの恵みが当然なもののように思えて、決して人と分かち合わず独り占めしようとし、救い主をプレゼントとしていただくその喜びをほかの人と分かち合おうとしない自分がいるのです。皆さんはいかがでしょうか。

 今日、私たちは、『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』と叫ぶヨハネの声に聞き、自分の内側、自己中心的な都合に固執している自分を覗いてみたいです。それらを聖霊と火で焼き払われるために来られる救い主に委ねたい。私と神さまとの中の凸凹した道が平らになり、救い主がまっすぐに私の中に来られますように、道づくりをしたいのです。私と神さまとの間の道が通るようになれば、周りの人々との関係も平らになるからです。みなさまの道づくりが御手に導かれますように祈ります。

 

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