目を覚ましている

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2025年11月30日(日) 説教

待降節第1主日

オルガン奉献50周年記念を覚えて音楽礼拝

マタイによる福音書24章36~44節

目を覚ましている

 アドベント蝋燭が一本照らされました。今日から暦が変わり、マタイ福音書の年になります。待降節です。この季節、私たちは自分の罪を悔い改めながら、慎んで、救い主を待ちます。待降節は四旬節よりは短いし、街の中はクリスマスの雰囲気が強いので、慎んで過ごすことが難しく思います。それでも、世の流れに流されないために、何か、具体的なことをして過ごしたいです。たとえば、今年はマタイ福音書の年ですから、待降節の間、マタイ福音書をじっくり読むとか、クリスマスまで甘いものを絶つとか、疎遠していた方に連絡を取るなど、心を込めて大切なときとして過ごしたいです。

 その新しい季節の始まりに、私たちは、オルガン奉献50周年を記念しています。オルガンが私たちのために50年間奉仕してくれました。私は、音楽が専門ではないので、オルガン曲などに関してはわからないところが多いのですが、ルーテル教会の礼拝の中でオルガンが果たす役割はとても重要です。ただ讃美歌を演奏し、司式者が唱えることに合わせて音を出すという理解を超えます。司式者と一つになってリタージをリードし、礼拝を導く役割をオルガンが果たします。ですから、オルガンが果たす奉仕は礼拝の色を現わすようになるのでとても重要です。コンサートホールで弾くように讃美歌や礼拝の式文をリードしてしまえば、礼拝の場がコンサートの場のようになってしまいます。というのは、礼拝の中で奉仕する者には祈りと謙虚さが求められるということです。奏楽者のみならず、説教する者、司式者、聖書朗読者みな同じです

 さて、その大切なときに拝読された福音書の中でイエスさまは、「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたにはわからないからである。」(42節)とおっしゃっておられます。そして続けて、「家の主人は、盗人が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(43~44節)とおっしゃいます。

目を覚ましていなさい。」目を覚ましているということ。つまり、それは、目を覚ましている家の主人は、盗人が、夜、自分の家にみすみすと忍び込んで来るのを許さない、その家の主人のようであるというのです。「みすみすと人の家に忍び込んでくる盗人」という表現が私には面白く思えました。私たちの内面、心の中にもみすみすと忍び込んでくる盗人がいます。しかし、私たちは、その盗人にあまり気づかない場合が多いです。さらには、あまりにも優しく、自分をオープンにしてしまっている面があります。それは、仕事の忙しさとも関係しているのかもしれません。仕事をしていなくても、今、私たちが暮らしている社会のシステムの資本主義体制の中ではあまり気づきにくいかもしれません。私たちは小さい頃から、立派な大人になる期待を寄せられて育っていますし、自分の子どももそういう期待をもって育てました。そしてそうなるために学び、就職し、忙しく働き、さらには地位を確保するために必要以上に頑張るときもあります。その中で、この世的優劣感の中で結ばれる人間関係で苦しむ日々も過ごします。それが大人の世界なのだと、どこかでそういう生き方に甘んじてしまっている面がないでしょうか。

星の王子様」の作者のサン=テグジュペリはその本の中でそういう大人のことを訴えます。大人は数字が大好きだと。人との出会いの中で大人が大切にしているのは、その人の声とか、どんなことに興味を持っているかよりは、年はいくつとか、背丈はどれくらいとか、どんなに家に住んでいてどんな車に乗っているとか、給料の額などの数字にばかり関心を寄せるのが大人であると。そして、大人は子どもが描いた絵の意味さえ、子どもから説明を受けないとわからないと。

そう、サン=テグジュペリは、大人は、純粋さを失った人、子どもの感性をほかのものと交換してしまった人と描きます。だから、子どもが描いた絵さえ一人では理解できなくなったのだと。資本主義がもたらした成功主義や合理主義の中でみすみすと中に入って来た競争心や優劣感が、その人の純粋さを奪ってしまったのです。そんな中で、何が何でも自分が優位に立たなければならないと、自らそのために頑張ろうとするなら、人は、体がいくらあっても足りなくなりませんか。

 「目を覚ましていなさい。」とは、このような世の中の流れに沿った生き方から神さまの前に帰ってきなさいという呼びかけです。人々はいろんな生き方をする。しかし、あなたはあなたを保った生き方をしなさい。あなたを創造された神さまの中で、神さまと共に、平安の中を生きる者になりなさい。その中にあなたの働き場はあなたの賜物に合わせて与えられるというお勧めなのです。

 なぜ私たちが神さまの方へ心を開いて帰らなければならないのか。それは、イエスさまがご自分の器として私を求め、私を通して福音を述べ伝えたいと思い、私に会おうとして来られたときに、会える場所にいたいからです。今日の福音書の始まりに、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも、子も知らない。ただ、父だけが知っている」と記されている、父だけが知っているというその日、その時、それがいつになってもいいように、常に神さまに向かって目を覚ましていたいのです。それは、同時に、私の自我や執着に対して目を閉ざすということを意味します。私とイエスさまとの関係を邪魔するために入って来る盗人に心を許さないためには、入ってくるそれが盗人なのか、それとも私の内面を豊かにしてくれるものなのかの識別が必要です。しかし、私たちがこの世の価値観を疑うこともなくそのまま生きている限り、そういう識別はできません。私たちがそう言う識別ができないでいれば、私たちの教会も識別できない教会になります。

 ですから、そうではなく、この教会に集い、あらゆる場所で奉仕をする私たちは、イエスさまからいつデートのお誘いが来ても、すぐ、「はい!」と返事ができるようにしていたいのです。今の時代だから、イエスさまが、ラインとかメールでお誘いくださればわかるのにと思う方もおられるかもしれません。しかし、ラインやメールもすぐ確認が出来たらの話です。電話がいいとおっしゃいたい方もおられるでしょう。しかし、イエスさまのコールは胸に響きます。胸が時々している人に、つまり、生きている人に、子どものように今を生きる人がイエスさまの訪れに気づくのです。「目を覚ましている」ということは、今を生きることです。

 私たちが子どものように単純素朴なシンプルさを保っていれば、私と関わるすべてのものが神さまを褒めたたえるにふさわしくなります。上手くいくかいかないかは、相手の問題ではなく私のことなのです。楽器も、朗読される聖書も、歌声も、司式や説教も、さらには、家族との交わりや職場の人や友達との関係づくりで、数字を数えるような向き合い方ではなく、その相手が持つ固有性、個性、ありのままを尊ぶような向き合い方をすることによって、私たちの中に救い主を迎える場はどんどん広くなってゆくのです。この待降節、よりシンプルになって、胸のときめきを大事に過ごすときでありますように。待降節をどう過ごすかによって私たちが迎えるクリスマスの色も変わることでしょう。

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