神の記憶力

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The Crucifixion - Christ on the cross with the two thieves; a few Roman soldiers and some followers of Christ print ca. 1907. (Photo by: HUM Images/Universal Images Group via Getty Images)

2025年11月23日(日) 説教

聖霊降臨後最終主日

ルカによる福音書23章33~43節

神の記憶力

 今日は聖霊降臨後最終主日です。この日に選ばれた福音書は、イエスさまが十字架に付けられているところです。イエスさまの右と左には二人の強盗が付けられていました。私はこの場面を読むたびに面白いと思います。十字架の上で、二人の強盗はイエスさまを囲んで議論しているのです。それはメシアについての議論でした。もっと正確に言えば、メシアが持っている能力についてです。そして、その下では、イエスさまの衣をおいてくじを引いている人たちがいれば、イエスさまのことをあざ笑い、侮辱し、罵っている人たちがいます。この十字架の上と下に繰り広げられている風景が面白いのです。

 これが、聖霊降臨後最終主日を迎えている日に読まれるということです。聖霊降臨後最終主日にこの箇所が選ばれているのはどうしてでしょうか。私たちに語ろうしているのは何でしょうか。

 私たちは、この一年間ルカ福音書を通して福音に与りました。今日がその最終日です。教会の暦は三年周期で回りますが、ルカ福音書の年が終わるとマタイ福音書に戻り、新たな年が始まります。皆さんは、ルカ福音書と共にどんな歩みをしてこられましたか。

 それに、今年の私たちの教会のテーマ聖句は、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)でした。私の場合、この1年の歩みは、この聖句に支えられての歩みでした。ルカ福音書の言葉ではありませんが、思いかけないときに家族を亡くして悲しむ隣人の傍にいる自分と、その逆の、私の悲しみに心を開いて共に泣いてくれた隣人、この自他が別々ではなく一つであるという貴い気づきをさせていただいた年でした。それは、悲しみのただ中から新しい始まりが起きているという、とても新鮮な体験をさせていただきました。皆様の一年の歩みのことも分かち合う機会があったら嬉しいと思います。

 今日、ルカ福音書から聞く最後のとき、今日は永遠の王キリストの主日とも呼ばれます。十字架の上に付けられたイエスさまの頭には「これはユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられていました。この罪状書きは人が妬みをもって書いて付けたものでした。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる人にとってイエスは、永遠の王なのです。私にとってこの方のほかに王はない、私の人生の真ん中の座に座るのは私ではなくイエス・キリストですと告白しましたから、イエスさまは私たちの永遠の王なのです。

 さて、十字架の上の二人の強盗とイエスさま。そこには緊迫感が漂います。もう時間がありません。残された短い時間の中でメシア議論が繰り広げられていることも面白いと思います。一人の強盗が、「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」(39節)とイエスさまが持っている力を試そうとします。この言葉には、「あなたにそんな力などないでしょう。だから、十字架に付けられたのでしょう」という皮肉が込められています。イエスさまを疑っているのです。

 皆さんは覚えていらっしゃるかどうかわかりませんが、以前こんなことをお話したことがあります。刑務所を訪ねて、特に死刑囚たちに福音を伝えている司祭や牧師たちがいますが、ある牧師が網走刑務所を訪ねたときのお話です。死刑判決を受けている人と文学の話をしていたとき、一人の死刑囚から、「先生、我らは神さまを疑う余裕がないのです」と言われたそうです。人々は神がいるかいないかと疑ったり、イエスがメシアかそうでないかを議論したりするのが大切かもしれないけれど、死刑判決を受けている私には、神がいないなど疑う余裕などないのですという、切実な言葉が返ってきたというのでした。

 死刑囚たちが迎える日々。いつ自分の名前が呼ばれるかわからなく、訪れる朝ごとに、今日かもしれないという不安と恐れの中で過ごす日々・・死刑の判決が下されてもすぐ死刑が執行されない中で抱かされる命への切実な思いがこの言葉から伝わってきます。この言葉を読んで、本当は私自身も死刑囚同様、生まれれば死ぬという運命を抱えて生きている。誰も死ぬ日をわかっていない。死刑囚という言葉は使わなくても、限りある時を生きていることには違いないのに、いつまでも生きられるかのような、安易な生き方している自分がいることに気づかせてくれた言葉でした。

 あと数分しか残されていないという緊迫した時のただ中にあっても、この強盗は心の疑いをまったく捨てません。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」と、軽蔑するような言葉を吐いています。その言葉を受けてもう一人の強盗が言うのでした。「お前は神を畏れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と。彼がどうして強盗をして十字架刑に処せられているのかわかりませんが、優しく正しい判断力をもっている人です。彼はイエスに願います。「イエスよ、あなたが、御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」(42節)と。イエスに自分を委ねているのです。沈黙しておられたイエスさまは彼に答えます。「よく言っておくがあなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(43節)と。イエスさまを信じ、イエスさまに自分を委ねた強盗は救われました。それでは、もう一人の強盗はどうなったのでしょうか。彼は救われなかったのでしょうか。

 もし、彼がイエスさまを疑い、軽蔑的な言葉をかけたという理由で楽園に入れないのなら、私たちはどうなるのでしょうか。神さまを信じる確信がある日もあれば、そうではない日が多いこの私は、イエスさまを疑った強盗が救われなとすれば、自分も救われないと思うのです。きっと彼も、ただ強盗になったのではなく、あれこれと一所懸命やってみたけどうまくいかなかった。ほんとうに神がいるなら自分がこんな目に遭うはずがないと、人生を悲観し、人を疑い、乏しいニンジン関係の中を生きてきた人ではないでしょうか。誰か一人でも、自分を認めてくれる人がいたら、また違った生き方ができたかもしれない。しかし、最後の最後に、彼は、今、やっとよき友に出会いました。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」という言葉は、私にも関心を寄せてみて、私は寂しいという心の裏返しの言葉に聞こえるのです。

 そして、そもそも、この二人の強盗がイエスさまの十字架を真ん中にして、一人は地獄、もう一人は天国と、行く道が分れてしまうのなら、イエス・キリストが担われた十字架はいったい何の意味をもつのでしょうか。本当にイエスさまの十字架は救う人と救わない人を分けるものなのでしょうか。

 イエスさまは、下でくじを引いている人たちやご自分を嘲り、罵る人たちのために祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(34節)と。

 このイエスさまの祈りが、悪人と見える人や善人と見える人を一つにし、イエス・キリストの十字架の祈りの中ですべての人の罪が赦され、救われた者になって行くのではないでしょうか。

 つまりそれは、神さまは、私たちが覚えているように私たちのことを覚えておられないということです。私たちの足りなかったこと、やるべきことを怠ったり、やってはいけないことをやってしまい、人を傷つけたりしたことなど、数えきれない過ちをずっと覚えておられるような方ではないということです。

 さて、残りの時間があまりないルカ福音書の年、または私たちの人生。その私たちの希望はイエスさまです。どうしようもない罪深い人間を心に留めて祈ってくださるイエス・キリストだけです。ご自分の命があとわずかしかないという状況のただ中でも、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」と祈り、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」と約束してくださっている、この方だけが私を救い、次の始まりへつなぎ、導いてくださる方です。

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