人生の乗り換え道
2025年11月2日(日) 説教
全聖徒主日
ルカによる福音書19章1~10節
人生の乗り換え道
みなさまは今の自分に満足していますか。もう一度生まれても今の自分として生まれたいと思いますか。そうだと思う方は、今を幸せに生きておられる方です。すぐ返事が出来なかった方は、今の自分にあまり満足していないのかもしれません。または、人と自分を比較しているのかもしれません。現実から逃れるために、理想を追いかけているのかもしれません。
悲しいことに、多くの人が、今の自分に満足していないという結果が出ています。こんな家に生まれ、こんな人と結婚して、こんな仕事に就いて、子どもが言うことを聞かないので、周りの人や環境が私の幸せを奪っているような理由をつけて、幸いを受け取る器をひっくり返し、幸せを逃がしてしまっている場合があります。もし、自分の中に不平不満が多いと思うなら、今、自分の人生の器が正しく上に向かっているのか、ひっくり返されているのか確認した方がいいと思います。その確認ができるとき、私たちにわかってくることが一つあります。自分以外の他者、つまり周りは、いつまで経っても変わらないということです。もし、今、上手くいかない関係を変えたいと思うなら、自分が変わるしかないのです。変わるためには、そのための力が必要ですから、人生の器を上に向けて力をいただかなければなりません。
先ほど拝読しました福音書に登場するザアカイという人も、自分の幸せを司る力がない人でした。彼はお金持ちです。当時、イスラエルを植民地化においていたローマの職員ではありましたが、徴税人の頭という、社会的な地位についていました。広い家に住み、足りないものが何一つない。しかし、肝心なものがないのです。自分の心を満たして孤独を癒してくれる、その一つを手に入れることができないのです。山ほど溜めてある財産も何の役にも立ちません。それで、彼は、イエスの訪れを知り、イチジク桑の木の上にのぼり、イエスを見ようとします。背が低かったから木にのぼったと記されていますが、ほかに、人々と群がっていられない何らかの理由があったのかもしれません。
その彼にイエスさまが目を止められました。イチジク桑の木の上でイエスを見下ろしているザアカイを、その木の下でイエスさまが声をかけられます。「ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしている」と。ただ「下りて来なさい」ではなく、「急いで下りて来なさい」とおっしゃるのです。さらには、出会う前からお心に決めておられたように、「今日はあなたの家に泊まることにしている」とおっしゃるのです。イエスさまは以前から人間関係に疲れ、生きることに意味を失いつつしおれていくザアカイをご存じだったのでしょうか。「急いで!」、「あなたの家に泊まることにしている」というお言葉は、この村に入られた理由がザアカイに会うためだったように聞こえるのです。
それだとするなら、このことはイエスさまにとって意外なことです。聖書の中でイエスさまは、多くの財産をもつことに厳しい姿勢を示されます。お金によって人の在り方が変えられてしまうからです。それで、お金持ちと交わる姿は聖書にはあまりありませんが、たった二人、金持ちでありながらイエスと真正面から向き合った人がいます。その一人は、今日の福音書のすぐ前の18章に描かれている金持ちの議員という人です。そしてもう一人は、今日の福音書のザアカイです。ですから、イエスさまが金持ちのザアカイに厚い思いを抱いておられたのは意外なことですが、きっと彼の徴税人、しかもその頭という職業柄、それゆえに人々の輪に入れない、それがイエスさまの関心を引いたのかもしれません。
さて、イエスさまはザアカイの家に入られました。人々にそのイエスさまの行動は理解できません。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言って冷ややかな目で見ています。しかし、ザアカイと出会いその家に入られたイエスさまと、自分の家に宿を取ってくださったイエスを迎えたザアカイに、そういう人々の冷ややかな視線などまったく気になりません。イエスさまが自分の味方になってくださったことが分かった以上、ザアカイは、もう何も怖くありません。それで、ザアカイは宣言します。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」と。この宣言は、神さま「ただいま!」という悔い改めの告白と同じです。「ただいま!」は、外から帰ってきたときに言う言葉です。疲れて帰ってきた自分が受け入れられ、安らぎを提供してくれる人がいることを知り、安心した人が言える言葉です。
昨日の朝日新聞の天声人語の欄に、外国人に日本語学習を支援する老夫婦が開催した作文コンクールに、多くの国の人たちの応募がありその中から優秀作として選ばれた言葉が紹介されていました。その一つが、「ただいま」という言葉で、イランの大学生が大好きな日本語として選んだということでした。
「ただいま!」、そして「お帰り!」、とても美しい響きがあります。向かい合う家族がいることが前提になっています。疲れて家に帰り「ただいま」と言えば、家の中から「お帰り」と言って迎えてくれる誰かがいる。しかし、その温もりを味わえない人がいます。ザアカイはそういう環境の中に置かれていたのではないでしょうか。聖書にザアカイの家族関係は記されていませんが、大きな家に帰っても迎えてくれるのはひんやりとした空間だけ。心の虚しさは一層深くなっていくばかりのザアカイから「ただいま!」と言われてイエスさまもみんなの前で宣言します。「今日、救いがこの家を訪れた」と。この宣言は、帰ってきた人をありのまま迎え入れるときの「お帰り!」と同じ意味を持ちます。
私たちもザアカイのように木の上に上りたくなるときがありましょう。人間関係が上手くいかないと
き、相手から切り離される場合もあれば、自分から一人になりたい思いと疲れを引きずってしまうときがありませんか。血のつながりのある家族だからこそ、うっとうしくなるときさえあります。そうなると、あのときこのときと、過去の思い出を掘り出しては今と比べて自分を責め、暗闇へ追いやってしまう。今が嫌なわけですから、未来に対してもいい顔が出来ず、自分の未来に対してムスッとした顔しか出せない。そもそも自分自身との関係が崩れているのです。それを修復する余裕もなく、忙しさの中で、生き甲斐のない日々をただ繰り返すだけの生き方をしてしまいます。
自分の未来に対して笑顔を出せないのは、希望がないからでしょう。もう先が見えているのに未来への希望などないとおっしゃる方もおられるかもしれません。それは、この世での生が全てだと思うからそういう結論が出されるのでしょう。この世での生が終わっても私たちはなお生き続けます。未来はまだ長く今と直結しています。今を笑顔で生きる人は、笑顔になる未来がやってきます。あらゆる出来事の中で、今、笑顔でいられるということは、イエスさまとつながっているという証になります。イエスさまは今という時を司る神だからです。そのイエスさまとの出会いが果たされたとき、人は限りなき平安の中に招き入れられます。ザアカイが、「今日救いがこの家に訪れた」、「お帰り!」と宣言されたように、私たちも同じく迎え入れられて神の温もりに包まれるのです。幸福なときです。そしてそこで、私たちは、自分の人生の器がちゃんと上へ向かって直されたことに気づかされます。そこには、上からの恵みが限りなく降って来るので、フルに満たされます。もう恐れはありません。もう一度生まれても今の私で生まれたいと、自信を持って告白ができる!イエスさまとの出会いによってすべてが変わったのです。
ザアカイは、今というときを失っていました。人々との関係はもちろん、自分自身との関係も崩れ、神さまとの関係も断絶されていたのです。今、彼は、イエスさまに出会い、人生の器を正しくセットしていただきました。
御許に召された私たちの家族や信仰の先輩たちは、そのイエスを救い主と告白して信じ、信仰の歩みを続けられました。波風多い日々のただ中でも、イエスさまが共にいてくださったから前へ進むことが出来たのです。この世でイエスさまと一緒におられたのですから、死んで今なおイエスさまとご一緒なのです。そしてそれは、今、イエスさまを見つめる私たちと御許におられる方々とご一緒ということです。イエスさまがおられるところに、イエスさまとの交わりの中に入れられた一人一人が一緒にいることになるからです。そして、今、この世でイエスさまと一緒にいる私たちも、やがてこの世での生が終われば、なお、イエスさまと一緒にいることになります。
Youtubeもご視聴下さい。