帰って行く

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10月12日(日)説教

聖霊降臨後第18主日

ルカによる福音書17章11~19節

帰って行く

 皆さんは自分のことに感嘆していますか。感動ではなく感嘆するのです。感動は心の中のものですが、感嘆は言葉になって出されるものです。たとえば、赤ちゃんが一歩を踏み出したとき、ママ、パパと言葉を発したとき、「すごい!」「できた!」と言葉に出して感嘆します。さらには、気になっていたことが解決したとき、諦めていたことが可能になったとき、心配していたことが何でもないと分かったとき、感嘆します。これが習慣になれば、朝、目が覚めたときも、「すごい!」、「生きている!」と感嘆し、鏡に映っている自分に向かって「美しい!」、「きれい!」と言葉に出せるようになります。これらの感嘆詞が自分を生かす力になるのです。なぜこのようなことをお話しているかと申しますと、私たちが生きるこの社会や人間関係、教会も、定められた規範があり、暗黙のうちに守らなければならないルールの中を私たちは生きているからです。ですから、自分に感嘆することで自分を解放していく生き方をしたいのです。自分で自分を褒めるときに人も私のことを褒めてくれます。

 さて、先ほど拝読された福音書には、「イエスは、エルサレムに進んで行く途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と記されていました。「サマリアとガリラヤの間を通られた」という言葉は聖書の中でここしか出てこない珍しい表現です。その村ではユダヤ人とサマリア人が一緒に暮らしていたということとこの表現はつながっていると考えられます。

 十人が患っていた規定の病。「規定の病」とは、原語では「レプラ」と言い、昔の聖書には「らい病」と訳されていました。しかし、ハンセン病の人たちから抗議があり、新共同訳聖書には「重い皮膚病」と訳されましたが、その訳も失礼な訳と言われていました。それで、新しい聖書協会共同訳聖書には「規定の病」と訳されましたが、もっとわかりにくい表現になってしまいました。「レプラ」をどんな言葉に訳すか、訳す側も大変だったことでしょう。なぜなら、この病には偏見と差別が付きまとっていたからです。この病気は伝染すると言われ、発症すれば共同体から隔離されなければなりません。レビ記には、この病にかかっている間は宿営の外に隔離され、私は「汚れている、汚れている」と叫びながら、口ひげを覆って暮らさなければならないと記されています(13:45∸46)。非常に悲惨で差別的な規定です。ですから、訳すことにおいてもそれだけの苦労があったということを受け止めて今日のテキストを吟味したいと思います。

 ガリラヤとサマリアの境界線の間を通っておられるイエスさまは、既定の病を患っている人たちが隔離されている村へ入られました。すると、病を患っている十人の人がイエスさまを出迎えます。人に近づいてはならないと禁じられていたので、彼らは遠くに立ったまま声を張り上げて叫びます。『イエス様、先生、私たちを憐れんでください』と。

 とんでもないことが起きています。病が発症されれば、私は「汚れている、汚れている」と叫びつつ、愛する家族や隣人から隔離されなければならない。ですから、決して、誰も、訪ねてくる人はいなく、たとえ食料を届けに来たとしても、入口のどこかにおいてさっさと帰って行く、そんなところへ積極的に訪ねて来られる方がおられる。イエスさまは、関係から切り離されたこの人々に関心を寄せ、余儀なく負わされた汚れに触れようと近づいて来られました。そして早速、「『行って、祭司たちに体を見せなさい』」と言って彼らを汚れから解放してくださいます。

 律法に定められているからとは言え、見捨てられるように汚れを負わされた身となれば、人は誰でも生きる希望を失ってしまいます。病のゆえに面影は醜く変わっていく、余儀なく注がれる社会の偏見と差別。自分だけでなく家族まで小さくされ、周りの冷たい視線に耐えなければならない。何のために生まれ、何のために生きているのかわからない無意味な人生。その心に宿る虚無感、孤独、悲しみ、それらにイエスさまは共感を示され近づいて来られたのでした。そして、彼らの汚れを共に背負ってくださった。「『行って、祭司たちに体を見せなさい』」。  この一言で彼らはその村から出て行くことができました。自由へ向かって歩き出したのです。このような友が一人いるだけで人は生きていけます。

 村から出て行った彼らは、祭司のところへ行く途中で清くなり、病が癒されました。救われたのです。そのことに気づいたのは、十人の中の一人だけでした。直ちに彼は癒し主のところへ帰ってきます。帰って来た彼を見てイエスさまは問いかけられます。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。」このイエスさまの言葉は私たちに何を問いかけ、どんなことを勧めているのでしょうか。

 私たちは、体の病のことだけでなく、人生も、家族や周りの人も、神さまも、教会も、みんな自分の都合のいいように向き合おうとします。イエスさまの一言で村から出て行き、新たな歩みへ導かれた十人、その中の九人はイエスさまのところに帰ってきませんでした。その後、どうなったのでしょうか。『イエス様、先生、私たちを憐れんでください』と切に叫び、病や偏見と差別から解放されようと必死だったときのことを、彼らは覚えているのでしょうか。きっと、未だ、どこかで、祭司や律法の判断基準に寄らなければ生きる道が見つからず、救いへの確信もなく、不安の中を生きているのかもしれません。病人にとって病が癒されることは救いそのものです。「レプラ」という病がもたらした偏見と差別から解放されることは、その人の人間としての尊厳が回復され、堂々と社会へ入っていって群れの一員として発言ができるということです。帰って来なかった九人は、果たしてその発言権を行使できているのでしょうか。

イエスさまのところに帰ってきた人は、自分の体を通して、失っていたすべてが本来の姿に回復されていくことに気づきました。その気づきが彼に救いの確信をもたらしました。そして、自分にその確信をもたらしてくださった方とその喜びを分かち合いたかった。そこで、彼は、帰ってきた人だけが聞ける言葉を聞きます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

 イエスさまに帰って行くということ、それは、自由を選び取ることです。律法によって示されるあの道もこの道もあるけれども、イエスに通じる自由な道を選び取るということ。それは、人生のヴィジョンを、イエスさまを通して描き出すということです。しかし、それは簡単なことではありません。なぜなら、そこでは、この世のマニュアルに従って将来を描き出すことができないからです。イエスさまの方に帰ってきた人は、律法的な、この世のマニュアルに従って縛られた生き方ではなく、イエスさまによって自分の心に響いた、喜びが示す道を歩み出したのでした。そしてイエスさまも、その彼を迎えて喜んでおられます。イエスさまの喜びがイエスさまの言葉の中にあります。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」本当はもっと多くの者が帰ってきて欲しかった、もっと多くの者と友だちになり、神の国の喜びを分かち合いたかったイエスさまの心がこの言葉に表れています。

 帰って行くということ。それは、どんなに小さなことでも、私でなく神さまがなさったのですと告白し、神さまに栄光を帰す生き方です。それは、自分の人生の中に介入して来られた神さまに気づくことから始まります。それは、隣人との関わりの中でわかることなのかもしれません。神さまが隣人を通してご自分を現してくださる。私の弱さや醜さにも構わず関わりをもって向き合ってくださる、それゆえ自分が自分らしく生きられる。その一人の隣人のゆえに、私の心の傷が癒され、救いの確信がもてた。周りが何と言われようと私とまっすぐに向き合ってくれるその一人との交わりの中に、癒しがあり、救いがあるのです。そしてそれは、私たちが、また、その一人となっていくということ。交わりから切り離され、余儀なく孤立していく人の隣人となって、その人に負わされている重荷を分け合う。そのために私たちは毎週教会へ帰ってきているのです。そして、今日の物語は私たちに、イエスさまの方へ帰って行くという生き方を勧めているのです。いくら歳を取り、力がなくなって弱々しい自分と思っても、今、とんでもない忙しさの中にいるようでも、心の向きさえ変えれば、私たちは、イエスさまの手となり足となり口となって、今、生かされているその場で救いの業を実現していく素晴らしい働き人になれるのです。イエスさまの方へ帰って行く私たちは、結構、格好よく、美しいのです。イエスさまから出てくる生きるための希望や力と知恵をいただくのですから、私たちは祝福された一人ひとりなのです。

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