神のえこひいき
2025年9月28日(日) 説教
聖霊降臨後第16主日礼拝
ルカによる福音書16章19~31節
神のえこひいき
富との関係についての話が続いています。今日の物語は、ある金持ちと、その金持ちの門前で物乞いをして生きるラザロの話です。
金持ちは、紫の布や上質の麻布を着て、毎日派手な生活をしていました。当時、紫の布は、イスラエルでは生産できないため、ティルスという国から輸入していました。イエスさまの時代のティルスは、金属加工や紫染め物の生産地として地中海全域と貿易をしていて、世界に知られていました。また、ティルスの貨幣はもっとも安定していて、エルサレム神殿に納める献金も、その信頼性の高さの故にティルスの貨幣に両替されたものがささげられていました。
ですから、この金持ちは、外国製の着物を着、食卓も旺盛で、贅沢な生活を送っていたということです。その反面、金持ちの門前には、その食卓から落ちるものでも拾って食べたいと願いつつ横たわっているラザロがいます。体はできものだらけで、犬も来てなめるほどと書いていますから、彼は、律法に照らし合わせれば、汚れの極めを生きる人でした。きっと、ラザロは、金持ちの食卓から落ちてくるものを口にしたことは一度もなかった。つまり、金持ちには、自分の門の前に横たわっている貧しい人間のお腹の事情には関心がありません。今日はどんな服を着て、何を食べようか、金持ちの関心は自分自身にしかなかったのです。
物語の全体は、そうしたこの世でのことだけでなく、死んでからの世界も描いています。現世では金持ちと乞食の関係であった二人ですが、乞食は死んで天国に行き、金持ちは炎が燃え盛る地獄にいると描いています。いっぺん、いいことをすれば天国に行き、悪いことをすれば地獄に行くという、因果応報の思想を語っているように思いがちですが、本当はどうでしょうか。金持ちは自分の富を自分が使いたいように使っていたのであって、何も悪いことはしていません。人に害を与えるような生き方はしていないのです。それに、金持ちの門前に横たわるラザロは、貧しさをわが身に負っての生き方ですが、何か人に良いことをしているような様子はありません。なのに、どうしてラザロは天国に行き、金持ちは地獄に行ったのでしょうか。
その答えは、先週の流れからわかることだと思います。つまり、自分の物をもって自由な生き方をしているとしても、他者抜きの独りよがりの生き方を聖書は嫌っているということです。
今日の物語では、その他者が、どこか遠くにいるのではなく、自分の門前に、すぐそばに、毎日出入りするそこに横たわっていました。一時も離れることなく一緒にいたのです。なのに、金持ちの眼中にはラザロが入って来なかった。見えても無視していたのでしょう。
金持ちの門前に横たわっていて、できものだらけで、犬にまでなめられていた貧しい人、ラザロ、彼は死んで天国に行きました。どうして彼は天国に行ったのでしょうか。いったい彼は誰なのでしょうか。誰も背負いたくない貧しさを身に受けて、物乞いをして生きる人生。ラザロの一生涯は、誰から見ても「何のために生きているのかわからない」人生でした。
その彼が金持ちの門前に横たわっているということ。富のゆえに心の扉を固く閉ざしている人の家の門前で、犬にまでなめられながら、つまり、律法の汚れを背負わされて横たわり続ける人。
つまり、彼は、そのままの姿で、金持ちの頑なな心をノックしていたのです。見える世界が全てではない。お金が見せてくれる世界よりもっと広い世界がある、喜びに満ちた豊かな世界がある、そこで一緒に生きようとラザロはその汚れた体をもって金持ちの心をノックし続けていたのです。
聖書には、一つの大きな流れがあります。特に、旧約聖書はわかりやすくいたるところで書いていることがあります。貧しい人、寡婦、孤児、寄留者、レビ人は自分の持ち物がない人だから、大切にしなければならないというお勧めが、律法の中にちゃんと書かれています。
レビ記にはこう記されています。
「あなたがたが土地の実りの刈り入れをするとき、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である」(23:22)。
申命記には、「あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい。そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう」(14:29)と記されています。
これは、財産を持たない貧しい人や寡婦、孤児、寄留者、レビ人のためにでもありますが、これらの人たちの分かち合って生きる生き方の中に祝福が宿る、豊かな人と貧しい人が共に生きることの美しさを律法が教えているのです。
さて、二人は死んで一人は天国に、もう一人は地獄に行きました。天国に行ったラザロは静かですが、地獄に行った金持ちはいろいろと言いたいことがあります。彼とアブラハムのやり取りが始まりますが、どうやらその話を聞いていると、この金持ちは、生きていた時に、あまり聖書を読まなかったようです。地獄の炎にさいなまれている自分を憐れんでくださるように嘆願し、自分の兄弟たちだけはここに来ないようにラザロを遣わせてくださいと願う彼に向かって、アブラハムはこう返事しています。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入ればしないだろう」と。
このアブラハムの言葉は、御言葉と死と復活を語っています。とても重要なことアブラハムは述べています。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」、つまり聖書に心を開いて聞かないなら、たとえ、イエス・キリストが死者から復活したとしても信じないだろう、ということです。とても大切なことが述べられていますが、金持ちはこの言葉の意味が分かったのでしょうか。
当時は、今のように一人ひとりが聖書をもって家でも読み、教会に来ても読まれるのを目でおえるような時代ではなかったために、安息日に会堂に行って礼拝に与り、そこで語られる御言葉をひたすら聞きます。
聖書には書かれていないのでわかりませんが、この金持ちは、毎週、礼拝堂には行っていたのかもしれません。ユダヤ教の会堂は礼拝の場所ですが、コミュニティーの場でもあったので行っていたのでしょう。しかし、彼も、兄弟たちも、そこで読まれる神の言葉を聞いてはいても、心を開いて聞いていなかった。ですから、語られる御言葉を軽んじるような生き方しかできなかった。富が彼らの耳を塞ぎ、心を神から切り離したのでした。律法にも書かれているように、貧しい人々を大切にした生き方の中に祝福があるという語りかけが、聞こえなかったのです。その彼らにとってラザロは見える御言葉のようなものでした。しかし、耳も目もふさがってしまっていたために、ラザロなど見えていませんでした。
この物語を通して思うのは、今の時代、教会がラザロの役割を果たさなければならないということです。教会の存在目的はそこにあるのです。この世の富によって自己中心的になって行く人や社会に対して、貧しさを背負って向き合う。福音は貧しさの中でこそその力を発揮するからです。貧しさを生きる人は神のえこひいきの中にあるのです。私たちの教会はその貧しさを負っているのでしょうか。私たち自身はどうでしょうか。教会に来る目的がお金によって困らないような祈りをささげるためではないでしょうか。もし、そうであるなら、その私たちの心の扉を、ラザロのように叩くものがいることに気づくべきです。昔と違って、この頃は、ホームレスをあまり見なくなりました。まったくなくなったわけではありませんが、少なくなりました。日本が豊かになってきたからという風には理解していませんが、きっと政策的に見えなくしていることもあるのでしょう。その日本の中に飢え死にする人がいて、一日一食しか食べられない子どもたちがいます。さらには、温暖化の影響で作物の栽培ができないために、飢えを抱えて生きている国々の人々がいます。これらの知らせを、私たちは、家の門前ではなく、家の中のテレビやラジオ、新聞を通して見聞きしています。それに、この夏は、温暖化がもたらす暑さを嫌なほど経験しました。そう体験しながらも、私自身、ぼっとしています。聞き流して心を逸らしているその自分がいます。誰かが、そのことに専門的に関わっている人たちが担ってくれるだろうと考えているのです。あの金持ちと同じです。
今日も、御言葉に聞き、死者の復活を信じますと告白している私たちは、今、生きているこの場で、自分ができることを果たしていきませんか。どんなに小さなことでもみんなでやればきっと力になって行きます。神さまから与えられた賜物や豊かさを活用することで神の国の貧しさを背負う群れでありたいです。
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